QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

第三の願い(4)

 自然や宇宙、あるいは何であれ、その「真実」を定義する哲学者も、表面的な物質的対象に関連する事柄に基づいて、真実を定義しています。心やダンマ(法)の問題でさえ、真に深遠な定義は提供されていませんが、それでも人々はそれらの原則を盲目的に遵守し、その正当性が物質的証拠や聖典の記録に基づいている、正しい原則であると信じています。これは最終的に、弁証法唯物論の原則に従って、物質的な事物が心を導くという全体的な視点が生じるに至る、物質主義のさらに重度の兆候です。この弁証法唯物論は物質主義の概念であり、物質的な事物が豊富で良好であるとき、他のすべては同じく良好な状態になると考えます。今日、私たちは、物質的な事物がずっと心を導き、心を抑え込んでいるだけであることを目にしませんか?実際、心は物質的な事物の山塊の下に深く抑え込まれています。物質主義は、このように世界を導いています。それらの人々は、この世界や宇宙のすべての発展において、物質的な事物が心を導くと主張します。物質的な事物が良好である場合、心も良好です。これは自然法則に反する原則です。それは見掛け倒しでしかも最も欺瞞的ですが、それでも彼らは、誰もが彼らを信じるまで、彼ら自身の主張を証明するために、彼ら自身の根拠を見つけることができます。そして彼らは、物質的な事物の開発に手を携えます。したがって、物質主義はいつか世界を支配するでしょう。共産主義者でさえ、物質分野の発展を通じて世界を支配することを考えていました。

 

 法の原理に関しては、それは正反対です。法によって、人は事実や真実を識別することができます。それは、物質的な事物を導くのは心であり、その逆はあり得ないというものです。思考プロセスは、物質的な事物が生起する前に行われる必要があり、それに応じて行われる必要があります。身体に正しい選択をさせるのは心であるため、心は身体を健全な成長に導く道具です。体が健全であるとき、それは見返りに心を改善するのを助けます。健全な体では、心も健全になります。これは確かに真実ですが、物質的な事物と精神的な心において、どちらがどちらを導くのか?と尋ねられた場合、仏教の教えによれば、答えは身体に正しい選択をさせるのは、心であるというものになります。心はすべての物質的事物を導きます。したがって、心を最初に正しく設定する必要があります。そうして初めて、物質的事物が適切に使用されるか、有益に利用されます。これは認識可能な点である必要があります。

 

 したがって、私たちは、最初に心を発達させ、次にそれを正しく適切な使用に従事させる必要があります。 そうすれば、私たちは、物質的事物と心が適切な位置にあることに気付くでしょう。それ故、物質的事物が心を導くという概念は、それ自体が物質主義の側面です。

 

 物質主義者は、発展は物質的な事物に依存していると確信しているため、物質的進歩と発展を主な目標として設定し、結果は物質的豊かさと満足でしたが、これは心が物質的な事物を導くという事実と一致していません。現実には、社会に利益をもたらすために、どのような開発を開始することが認められるべきかを決定するのは心です。正しい種類の物質的発展が、心の正しい認識に依存しているのは、明らかです。しかし、今日実際に起こっていることは、人々が道徳的理念よりも物質的利益に関心を持っているということです。彼らは物質的事物の「美味しい味」に一層興味を持っているので、発展は物質的事物に依存すると主張しています。これは純粋な物質主義です。物品消費による満足は、さらに多くの物質的対象を求める心を導き、すべての人間が物質主義の奴隷になるまで、世界は物質的事物の開発で溢れています。これが私たちが「真の物質主義」と呼んでいるものです。

 

 彼らは物質主義を、生存を助け、保証する「イデオロギー」として崇拝し、欲望の「美味しさ」や喜びの崇拝から始めて、それを最高のものと見なします。または、彼らは、物質主義を、神の如くに、すべての確立された規則や原則として保持しています。 したがって、物質主義はこの盲目的な妄想の世界の神です。

 

 私たちは、物質的な事物が心を導き、発展させることが重大な事柄になっている時代に生きています。心は物質的な発達に非常に影響されているので、私たちは物質的な事物を神として崇拝するようになり、それらに関連する規範や原則も崇拝するようになります。

 

生命は、物質性と精神性の両方を持たなければなりません

 

 「物質主義」と呼ばれるこの事柄の特徴を、あらゆる側面から見てみましょう。私たちは、物質主義への執着を解決する方法を知らなければなりません。私たちは、正しい視点から物事を認識することから始めることができます。生命は、物質的な対象と精神性の両方を持たなければなりません。法の言語では、それらは rūpa(色、目に見える物体)とnāma(心)と呼ばれています。生命は、単に色や目に見える物体(rūpa)であってはならず、また単なる心(nāma)であってはなりません。物と心の両方(rūpa+nāma)で構成されている必要があります。したがって、私たちは、物質的な対象と心の両方の事柄において適切な管理をする必要があります。片側だけを握ると、すべてがうまくいかないでしょう。世界は、全体として、物と心で構成されています。世界の発展は、心が物質的な対象を導く、という方法でなされています。私たちが住む世界をどうするかを決めるのは人間の心であり、これまで私たちの心は、私たちを今日の世界に発展させるように導いてきました。明らかに、物質界を導くのは心です。それが逆の場合、結果は非常に否定的なものになります。要するに、それが個々の人間であろうと世界全体であろうと、それぞれが物質的な事物と精神性の両方なしでは成り立たないのです。私たちは、両方の事柄について正しい知識を持っている必要があります。

 

 それでは、問題全体をさらに深く見ていくようにしましょう。それが物質的な対象であろうと心であろうと、それは自然の元素(dhātu)にすぎません。私見では、そのような教えは仏教にのみ見られるようです。それによれば、すべてが自然の元素であり、ルーパ側(色:目に見える物体)あるいはナーマ側(精神的な側面)であり、存在のすべての状態や行動と反応を包摂していることを強調しています。幸福それ自体も元素と見なされ、苦しみも元素です。元素でないものは何もありません。涅槃自体も自然の元素ですが、それは形成したり加工したりすることができないことを意味する、"asaṅkhata"と呼ばれる元素です。それは本当に単なる自然の元素で、自然または自然法則に従った元素です。涅槃以外の他のものに関しては、それらはすべて、saṅkhāra(行:身体的、言語的、および機能的要素)の条件付けに屈します。要するに、それらは条件付けや加工の対象となります。

 

 私が学び、気づいてきた限り、自然界の元素に関する教えは、仏教にのみ見られるようです。それは仏教の教えの独創的な側面です。それが条件付けの影響を受けやすいか、条件付けを受けていないかにかかわらず、すべては単に自然な元素です。それがサンカーラであろうと、涅槃である非サンカーラであろうと、それは単なる自然の元素です。

 

(続く)