QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

第三の願い(3)

 この法話聴聞するためにここにいるすべての人に(お願いします)、自分自身をきちんと見て、自分自身に質問をしてください:なぜ私たちは、法を全く好まないのでしょうか?さて、私があなた方に答えを提供させてください。それは、それを認めたくないかもしれませんが、私たちが物質主義の魅力の虜になっているからです。実際、私たちの心の中には、仏法や宗教のような「ダサい」ことに従事する余地は、ほとんどありません。ある人に「いつか涅槃に到達したいですか?」と尋ねてみると、彼は「はい、そのとおりです」と答えましたが、涅槃にはラムウォン(タイのダンスの一種)はないでしょうと彼に私が言ったとき、ラムウォンの大の愛好家であった彼は、涅槃はもう結構ですといった様子で首を横に振りました。彼は、「涅槃の都市」では、ラムウォンが普通のラムウォンよりも、さらに愉快なものになるだろうと想像していたに違いありません。ですから、注意深く観察すると、ほとんどすべての人が、このような状況であることがわかります。涅槃を願いながら、涅槃には「美味しさ」がないと誰かが言った瞬間、心が変わります。物質主義がどれほどしっかりとこの世界を掌握してきたかをご覧ください。私たちは死ぬまでこの状況に留まるのでしょうか、それとも世界を物質主義から脱却させることで問題の解決を支援するのでしょうか?

 

私たちは物質主義の奴隷であってはなりません:「ダンマ主義」に従って生活する必要があります

 

 私たち全員が物質主義の奴隷になるのを防ぐために、私たち人類を掌握する必要があると私は感じています。つまり、少なくとも物質主義の魅力に抵抗し、法を広めることに真摯に取り組める人間がいるようにしましょう。さて、この機会に、"Dhamma"または"Dhammaism"(ダンマ主義)について、話をさせてください。物質主義と精神主義は正反対ですが、精神主義に過度に夢中になっていることも一種の極端な執着であり、物質主義に極端にしがみつくのと同じくらい有害です。したがって、人は精神的な心と物質的な事物、そして物質的な所有から得られるすべての官能的な喜びの中間の位置をとらなければなりません。つまり、精神的な心と物質的な事物の両方を制御できなければなりません。二つの間に何らかの形の調和があるようにしましょう。それは正しい種類の「制御」であり、双方にとっては問題ありません。この正しく適切な行動の仕方は、ダンマまたはダンマ主義と呼ばれています。

 

 物質主義からの脱却には、必然的に精神主義への愛着が続く必要があると誤解しないでください。必ずしもそうとは限りません。どちらも過激主義に進む可能性があります。正しいことは中道にいることであり、それはダンマ主義と呼ばれています。「ダンマ(法)」という言葉は、正しく理解されなければならない重要な言葉です。

 

 現在、物質主義がすべての人々を(ダンマから)引き離しているので、ダンマ主義はまだ広く普及しておりません。物質主義とは異なり、真の精神主義は一般的に人々を引き付けることができません。それは、精神性や精神問題に耽溺している、または誤った方向に進んでいる一部の人々、あるいは一部の人的集団だけを引き付けます。彼らは、森の中で隠者、苦行者、森林僧になってしまう可能性があり、誰にも、どんな国にも問題にはなりません。しかし、森の中で極度に質素な生活様式で生きることは、誰にとっても明らかな利益にはなりません。実際に世界全体に大きな問題を提起しているのは、物質主義の問題以外ありません。

 

 生命は、二つのもので構成されています:物質的な側面では、それは身体であり、精神的な側面では、それは心です。この両者の間に、物理的な側面にも精神的な側面にも傾いていない真実、または正しい真実を伝える何かがあります。それがダンマ主義です。

 

私たちは物質主義の意味を知る必要があります

 

 今、私たちはこの物質主義の問題を、特にそれが人類にとって邪悪な敵であるという状況で考えなければなりません。「物質主義」という言葉はかなり曖昧なので、この言葉の意味を知らない人は、それが何を意味するのかを理解する必要があります。

 

 何よりもまずそれが意味するのは、「物質の<美味しさ>に夢中になって騙されている状態」です。誰もが簡単に執着しやすいので、物質の「美味しさ」を崇拝します。母親の体内から生まれた赤ん坊は、たとえば母親の母乳から始まり、成長するにつれてより洗練された食事に至るまで、物質的なものの味に「中毒」になりやすいと感じています。誰もそれを教える必要はありません。赤ん坊や子供たちは自分で学びます。生まれてから数日後、赤ん坊は本能的に、自分にとって美味しいものを好きになることを学びます。物質主義は彼らを支配し始めます。子供たちは、物質的な事物に関する妄想の中で成長します。成長するにつれて、目、耳、鼻、舌、体、そして心などのāyatana(処:感覚器官)は、彼らをあらゆる方法で物質的な対象の「中毒」と「美味しい味」の妄想に駆り立てる、さらに高い能力を獲得します。子供たちは、物質的な事物の「美味しい味」を崇拝させるために彼らを連れ去る、悪魔(māra)と物質主義の巨大な怪物の犠牲者になります。

 

 私たちは、欲望や物質的な事物に激しく惑わされるほど物質主義的ではないかもしれませんが、物質的な事物が提供できる利便性と快適性は、物質主義の崇拝者になるように私たちを説得するのに十分です。そのため、私たちが望んでいるのは物質的な快適さだけであり、必ずしもより激越な形の官能的な喜びではない場合もあります。このように、全部で二種類の物質主義的快楽があり、ほとんどの人は、そのような物質主義的傾向の影響力を受けています。あるグループの人々は、物質的な対象が提供できる官能的な喜びの「美味しい味」に深く没頭し、別のグループは、エアコン付きの部屋や、便利で快適な旅行のための素敵な車などの、物理的な利便性と快適さを単に望んでいます。それから彼らは皆満足し、後に彼らの物質的な所有物に大いに惑わされます。

 

 人々は一般的に、物質的な対象の美しさについてのみ知っているようであり、心の美しさについては知らないようです。彼らは物質的な事物の価値を知っていますが、心の内面の美徳の価値を知らないのです。したがって、彼らは、次のような言葉を聞いたとしても理解しません。「法は最初に美しく、途中も最後も美しい。」それらの人々は、全く理解することができません。普通の俗人や在家仏教徒は言うまでもなく、比丘や沙弥でさえ、この聖句を理解することができません。それは、人々が物質的な事物とそれらから得られる快適さと利便性だけを知っている心を持っているからです。したがって、彼らは法に喜びを感じず、それに対する選好を開発することを決して気に留めません。実際、毎日この聖句を唱える人もいますが、彼らは自分が唱えた語句の意味に興味を持っていません。仏陀は、次のような言葉で私たちに想起させました:「あなた方全員が法を広め、法を宣言し、そしてそれは、最初も、中間も最後も美しさがあるように。」さて、仏教の説法者たちは、最初、途中、そして最後に、法の美しさを知っていますか?答えが「いいえ」の場合、どのようにそのような宣言をするつもりですか?

 

 今、私たちは、さまざまな規則や原則に関する問題に行き着きます。規則や原則の設定、歴史的記録の作成、証拠となるものの作成はすべて、物質的な事物に基づいて行われます。そのような問題に関係する人々は、精神的な心について何も知らないからです。したがって、多くの本や文献、および作成または設定されたさまざまな規制は、ほとんどが物質的な対象のみに関連する事柄であり、結論として、任務は完了し、最高点に到達し、これ以上のものはないとのことです。特に歴史的記録は、このばかげた方法で行われています。すべての歴史的事実は物質的な証拠に基づいており、精神的な側面は何ら関与していません。

 

(続く)