QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

空の心(6)

 さて、俗人はこの論題について、知るべきでしょうか、それとも知るべきではないのでしょうか?タイの一部の宗派では、在家俗人はこの問題について知る必要がないという見解を持っているのが通例なので、それについて考えてください。私たちはバンコクのあるグループから、一般の人々に、suññatā(空性)を含む問題を教えていると批判されました。それにもかかわらず、私たちは、俗人が空性について知る必要があるという意見です。結局のところ、俗人が苦しまなければならないのは、それについて知らないからです。俗世に住まなければならない人々にとって、空性は有用で役に立ちます。かつて、在家信徒の指導者が仏陀に会いに出かけ、彼らのような、世帯持ちでまだ在家の生活を送っている俗人にとって、何が最も有用で、何が最も役立つかを仏陀に尋ねました。仏陀は、空性が彼らに大きな利益をもたらすかもしれないと言われました。そうした俗人のうち特に有名なのは、アナータピンディカでした。仏陀と彼の弟子が共に様々な事柄についてアナータピンディカに説法しましたが、彼らは空性について彼には説きませんでした。アナータピンディカが重病になり人生最後の日に至ったとき、サーリプッタは彼を訪ねて空性について説法しました。そこで重病のアナータピンディカは、彼が長い間、仏陀と彼の弟子たちの教えを聞いていたにもかかわらず、空性について全く教えてもらえなかったという事実を嘆きました。死ぬ間際になってはじめて、彼はそれを聞きました。このことは、彼がそのような知識の恩恵を短時間しか得られないことを意味しました。それは残念なことでしたが、人生の早い段階で空性について知っていたなら、彼はそれからもっと多くの利益を得ることができたでしょう。それで彼はうめき声を上げて失望を表明しました。死が訪れるずっと前に、人々は空性について考え、それをよく知る必要があります。なぜなら、空について知ることは、人生の大部分で苦しみから解放されることを意味するからです。死ぬ日にだけ空を知るということは、良い人生を僅かしか味わえないことを意味するので、人生のできるだけ早い段階でそれを知る必要があります。そうすれば、より長い間、自由な心、空の心を維持する機会が得られます。俗世の人々は、苦と一緒に暮らす必要があります。実際、彼らは出家比丘よりも多くの苦しみを抱えて生きなければならないので、彼らはその対処について知る必要があります。空性は、それがどれほど高次元で、深遠に見えても、それにもかかわらず、在家俗人が知る必要のある問題です。結局のところ、大きな苦痛を抱えている人は、些細な痛みを抱えている人よりも医者を必要とするでしょう。同様に、苦が多い人は、空性についてよく知るべきです。それが公平で平等というものでしょう。 

 

 パーリ経典では、将来、人々が空性に興味がなくなり、それが仏教の破滅を招くと予言されています。人々が空性への興味を失い、仏陀によるものではない、空に関係のない新しいものに目を向けはじめると、それは仏教の終わりを意味するので、仏教は滅びます。
 

 この「新しいもの」とは、経典では、哲学者や議論好きの人々によってまとめられたものとして説明されています。それは何か新しいものであり、人気があるものの、涅槃の考えとは異質な新しい教えになるでしょう。それは仏陀の後世の人々が教えるものですが、仏陀の実際の言葉ではないので、彼らは空性ではなく別の方法で苦の癒しを説明し、それが人々を引き付けるでしょう。人々がこの種のことに興味を持つならば、空性に対する興味を失うでしょう。そしてそれは、仏教を無意味なように思わせるでしょう。耳に心地よく響き、新しいからという理由で、人々が何かに一層興味を持つようになるとき、それは混乱の始まりです。愚かな人を惹きつけるものは、法を忘れさせる傾向があり、法を忘れると、律も同じようになります。したがって、私たちは、「私」や「私のもの」として何も執着してはならないという基本原則を守る必要があり、仏教の確固たる基盤として、その重要な基本原則の一つを維持する必要があります:"suññatā"ー何ものも、「私」または「私のもの」として執着すべきではありません。人々がこの基本的な信条を保持する場合、仏教全体、大乗仏教上座部仏教、またはそれらの一部、あるいは支部、分派、団体、宗派、信者は、空性の知識を保持しますが、それがなければ仏教はありません。ですから、空性を本物の仏教の中心であると認識してください。それから空性を取り出して別のものに置き換えると、それは終わり、本物の"Buddhasāsanā"(仏教)の終わりです。仏陀は、古代インドのKhattiya(サンスクリット語クシャトリヤ)族の神聖な太鼓に関する物語の中で、この比喩を提示しています。カッティヤは戦士であり、この特別な部族には、神聖であったために取り替えることができず、新たに作ることもできなかった神聖な太鼓がありました。彼らがそれを取り替えることができなかったのは、それを取り替えると、それはもはや神聖ではなくなるからです。さて、古い太鼓のいくつかの部分が傷み始め、それらは新しい部材に取り替えられましたが、その後、他の部分も傷んでしまい、それらも取り替えられました。彼らはこのように続け、太鼓から元の部材がまったくなくなるまで取り替えてしました。ここでの要点は、元の正しい仏教が消えてしまうということです。これは、空性ではない別の事柄が、それに置き換わるために持ち込まれたためです。その後、空性は失われ、その痕跡は残りません。空性を取り除くということは、代わりに「私」と「私のもの」を入れるということに注意してください。anattā(無我)の問題を取り除くことは、無我を取り除いて、それをattā(我)に置き換えることを意味します。これは真の仏教の終焉を意味します。

 

 それでは、空性の基礎、つまり、aniccaṃ、dukkhaṃ、anattāを見てみましょう。 Aniccaṃ、dukkhaṃ、anattā、これらの三つの単語を合わせたものはsuññatāです:aniccaṁ(無常、不確実、不安定)、dukkhaṃ(苦、苦しみ)、および、anattā(無我)。無常、苦、無我を取り、それらを組み合わせると、空性が生まれます。空性は、無常、苦、無我です。誰かが無常、苦、および無我を完全かつ完璧に「見る」と仮定します。そうすれば、その人は空性を見て、その人が経験するものは何でも自由であり、「自我」がないことを知るでしょう。空性の理解しやすく明確な意味は、「自我の空」です。私たちが「私」の幻想を欠いているとき、「私のもの」もあり得ません。「私のもの」は「私」に依存しているので、「私」から解放されていればそれで十分です。「私のもの」もなくなります。さて、"sati-paññā"(気づきと知恵)があれば、私たちの周りのすべてのものが、内外を問わず、空性であるという特徴を持っていることがわかります。空の心はすべてを空と見なさなければなりません。そしてそれから心は止まり、静止し、そして何も追いかけたり執着したりしません。私たちは自分自身を調べて、涅槃にさえも、心が何かに執着する傾向があるかどうかを確認できます。心が正しければ、真に正しければ、そうはならないからです。

 

(続く)