QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

キリスト教と仏教(9)

 マタイによる福音書第7章12節の別の箇所は、仏教の業の法則を表現しています。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」これは基本的に、絶対的かつ全能の神である業の法則に従って、正しく行動しなければならないことを意味します。業の法則を信じているにせよ、それとも神を信じているにせよ、私たちがどのように行動するかによって、収穫する結果が決まります。これらの言葉には、自助(自力)の原則も見られます。

 

 マタイによる福音書第7章7節は、次のように言っています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう!」仏教の観点から、これも業の主題に当てはまります。神から何かを受け取るためには、私たちは尋ねるか、願い、求め、ノックしなければなりません。信じるだけでは十分ではありません。長時間座って祈っても、十分ではありません。これは、望ましい結果を達成するための真剣な取り組みです。私たちは、単なる言葉ではなく、私たちの行為によって、業の法則に「願い」ます。

 

 マタイによる福音書第11章29節で、イエスは、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と言っています。困難に辛抱強く耐える忍耐と堪忍をもって行動することが、ここで忠告されます。そしてそれは、今度は業の法則に従います。

 

 マタイによる福音書第12章33節には、次のような記述があります。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。」ここでも、業について教える仏教や、他のすべての宗教に見られるように、業の教えが認識できます。 したがって、仏教徒は、キリスト教を純粋な信仰の宗教ではなく、行為の宗教と見なしています。 

 

 マタイによる福音書第第12章50節は、「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである!」と述べています。この声明では、「信じる」ではなく、「行う」という動詞が使用されていることに注意してください。これは、イエスが、信仰よりも、その行為を強調したことを示しています。ここでイエスは、マリアを母親として、そして彼自身の親族として受け入れることを拒否しましたが、彼の父の意志を行った人々を、彼の親族や母親として受け入れました。信仰だけでは、兄弟、姉妹、あるいは母親になることはできませんでした。このような重要な箇所では、実践と行為が強調されていますが、信仰と祈りについては言及されていません。

 

 マタイによる福音書第18章35節では、次のように述べられています。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」信仰は必要ですが、それは、心から生じる行為、つまり意図的な行為(業の本質)です。

 

 そして最後に、マタイによる福音書第19章17節に、「しかし、もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい!」という指示があります。ここでの「守る」という言葉は、仏教の「実践」(paṭipatti)(という言葉)に対応しています。戒めを守ることや戒めを生きることは、単にそれらを信じるだけではありません。キリスト教と仏教の教えは、どちらも実践の必要性を扱っているという点で似ています。両方の宗教によると、注意力、理解、そして知恵を持って行動することなしに、信仰、恭順、または信心深さを持っているだけでは十分ではありません。ここで述べられた多くの引用は、マタイによる福音書の比較的少数の箇所に、仏教の業の原則に対応する、多くの教えがあることを認識するのに十分に明確です。新約聖書全体を考えるとしたら、そこには業に関連する箇所が、どのくらいあるのでしょうか?

 

 要約すると、寛容、許し、敵への愛、隣人への助け、自己愛以上の隣人愛を勧めるキリスト教の教えは、信仰だけではなく、行為に関する教えです。人が神を理解するかどうかは、関係ありません。なぜなら、上記の美徳を実践すれば、結果は、仏教徒が神であると信じている、業の法則に従うからです。最も単純な祈りでさえ、それが人の身体、言葉、そして心を含むという、単純な理由のための一種の行為です。ですから、祈りの行為は、身体的な行為、言葉による行為、そして精神的な行為から成り立っています。

 

 「信仰」と呼ばれる現象でさえ、それが正しい種類であり、知恵に基づいているとき、健全な精神的行為です。それは意図から生じるので、または意図自体が賢明で、惑わされていない心で本当の帰依処を見つけることであるため、それは健全な精神的行為になります。伝聞だけに基づく盲信は、ここでは行為には数えられません。

  

知恵の教えとしてのキリスト教

 

 ここで、行為と自力の原則以外に、仏教とキリスト教の教えに共通する、他の側面を見つけるために、さまざまな角度から、キリスト教を見ていきます。次に考慮すべき点は、キリスト教が、「知恵の宗教」であるかどうかです。

 

 マタイによる福音書第18章7節には、次のような言葉があります。「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」これは、キリスト教の教えが、道を歩むために、知恵または光を必要とすることを示唆しています。換言すれば、信頼できる、有能な導きが必要です。この導きは、知恵の光に他なりません、そしてこの場合、神は完全な光です。神を信じることは、神の光、あるいは神として擬人化された光に従うことを意味します。一般的に、信仰は、他人を前提としています。しかし、自分自身に信念が生じると、その信念は即座に光に変わります。その光や知恵は、完全に自分自身に依存しています。つまずきの誘惑や原因を克服することは、外部の案内を信じることではなく、自分自身の中にある光に依存します。これを仏教的に解釈すれば、イエス・キリストの教えにおける、知恵の要素を完全に見ることができます。

 

 「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」(マタイ13: 23)

 

 イエスが、「その言葉を聞いて理解する人」を「その言葉を聞いて信じる人」とは言っていないことに注意してください。仏教徒は、イエスが自分が聞いたことを信じるだけでなく、自分が聞いた言葉を理解する信者を望んでいると言うでしょう。そして、マタイによる福音書13章20-21節に照らして、何故彼が、そのような信者を望んでいるのかが明らかになります。「その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」これは、言葉を理解し、教えにしっかりと定着している人は、安定せざるを得ないことを示しています。しかし、急いで信じる人は誰でも、それは、太陽の下で乾いて実を結ばない岩に落ちる種のようです。このため、仏教徒としては、キリスト教は、知識の宗教であるという印象を受けます。しかし、宗教関係者は、常に信仰以外の何物も説教していません。その結果、先祖がキリスト教徒であった人々の中には、以前の宗教を放棄して別の宗教を採用したり、まったく宗教を失ったりする人もいます。私は彼らの何人かと話をしましたが、信仰があまりに強調されていなかったら、それは起こらなかっただろうと私には思えます。

 

 マタイによる福音書7章4節以下は、次のように述べています。「 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」

 

 これは、完全に目覚めた人(仏陀)が、法句経(Attavagga 158-159)で言っていることと、非常によく似ています:

 

 まず第一に、正しい道に身を置き、それから他の人に教えます。そうすれば、賢者は自分自身を傷つけません。他の人に教えるように自分自身で行うならば、その人は、他人を御することができます。そうです、自分自身を御するのは困難です。 

 

 ここで、「自分で行う」という表現は、明らかに「自分を教える」という意味であり、2節に照らして、自分が他人に教えようとする美徳にのみ、しっかりと確立されていることを意味します。イエスが言われたことを説明するために、自分自身の「梁」を取り除くことは、信仰よりも知恵と関係があることに注意する必要があります。このイエスの言葉がキリスト教の主要な教義と見なされるならば、それはこの理由のために知恵の宗教でもあります。ですから、キリスト教徒にとっても仏教徒にとっても、私たちの目からちりを取り除くのは、知恵の仕事、つまり神の光です。

  

(続く)