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中国共産党創設百周年(1)

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 たまに見ているドイツのラジオ局(Deutschlandfunk)のサイトで面白そうな記事を見つけたので、雑に訳してみる。タイトルは、"100 Jahre Kommunistische Partei Chinas: Eine Staatspartei feiert sich selbst"(中国共産党の100年:国家政党は自らを祝賀する)。

 

 「中国共産党は9千万人以上の党員を擁する。党の唯一の支配権は憲法に規定されている。しかし、その権力を維持するために、共産党は抑圧と検閲の巨大な装置を操作するーそしてプロパガンダ装置は、党創設記念日のために熱くなっている。」シュテフェン・ヴァーツェル(Steffen Wurzel)とルート・キルヒナー(Ruth Kirchner)による記事。以下、内容である:

 
 中国中部の延安市にある楊家嶺野外博物館。外からは目立たないレンガ造りのホールには、特に高齢者、学校の授業、会社の遠足など、訪問者の集団が集まっている。気分は幸せで寛いでいる。彼らのほとんどはスマートフォンを手に持っており、壁に掛かっている赤旗や横断幕、そしてもちろん自撮りなど、興奮して写真を撮っている。

 

 多くの訪問者が遠方からやって来ている。500キロ離れた常徳にある国営企業で働くこの女性のように。彼女は20人以上の同僚と延安にやって来た。

 

「私たちは勉強のためにここに来ました。共産党の創設百周年についてもっと知りたいのです。」

 

「私たちが今この国で経験している幸せな生活はここから始まりました!」


 中国共産党は延安を「革命の都市」として演じている。中国のいわゆる赤い歴史の中心地の一つと見なされている。共産主義者たちはいわゆる長征によって、1935年に瑞金から延安に撤退した。1940年代の終わりまで、この地は共産党の政治的および軍事的本部であった。

 

 外国人向けガイドLiu Tingは、延安の楊家嶺ホールの端に架かっている四つの肖像画を指差している。

 

「この肖像画は、マルクスエンゲルスレーニンスターリンです。彼らの業績、特にマルクスレーニンの業績は、当時の私たちの基礎を形成しました。」

 

 延安は観光客だけでなく、党幹部も魅了している。中国で最も重要な党大学は、陝西省の人口200万の都市にある。Feng Jianmeiは、共産党幹部教育のトップ教授の1人である。彼女は当時と現在の間のギャップを埋める。

 

 「延安時代は我々の党に多くの重要な経験を残した。その一つは、我々の党が強力で団結した指導力を必要としているということである。この経験に基づいて、今日の党は、中央の指導力の中核を持つことがいかに重要であるかを認識した。」

 

 強力な指導力の中核ーそれは国家および党の指導者、習近平への言及である。この68歳の男性は、2012年末から共産党と中国軍、人民解放軍を率いてきた。習は、2013年から国家元首にも就任している。彼は10年間の任期を廃止した。習は現在、彼が望む限り、または党が彼を許可している限り、国家元首および党首である。彼は共産党の専門用語で呼ばれるように「中核」であり、毛沢東以来、共産党と中国の最も強力な指導者である。

 

 習は定期的に、共産党だけが、14億の人口を有する中国を統治するために、歴史によって選ばれたことを言及している。

 

 「歴史は、中国共産党に中国国家の大再生を主導させるという国民の決定が、完全に正しかったことを示している。それから逸脱してはいけない。」

 

 今から100年前に、その四年前のロシアでのボルシェビキ革命に熱心で、この革命をヨーロッパから中国に持ち込もうとした、少数のマルクス主義者のグループとして、中国共産党は始まった。ソビエト連邦コミンテルン、つまりモスクワに本拠を置くコミンテルンの助けを借りて、最初の組織を設置することができたー当時はまだ非合法であった、とフライブルク大学の歴史学者、ダニエル・レーゼ(Daniel Leese)は言う。

 

 「党は長い間、比較的限界状況にとどまり、比較的大きなブームを得るさまざまな段階があり、最大のブームは確かに抗日抵抗戦争、すなわち、1930年代後半から40年代前半の段階にある。第二次世界大戦の中国での戦線が迫っており、共産党愛国心ナショナリズムに大きく依存していた。その後、党員数は数万から激増し、百万を超える。その後、建国の前後に同様の進展があった。」

 

 毛沢東と彼の支持者たちの勝利は、1949年10月1日であった。すなわち、北京の天安門広場での中華人民共和国の建国宣言である。


 今日まで、中国共産党は、ほとんど中断や矛盾のない英雄的叙事詩としての権力掌握の歴史を語っている。事実を正確に分析しようとする歴史学は、独裁政権とは相容れなかった。したがって、歴史学の管理も中国の権力政治の一部であると、中国の過去への取り組みを研究している歴史家のダニエル・レーゼは言う。共産党の歴史記述はほとんど科学的ではなく、聖書釈義、つまり解釈と判断に過ぎないが、中国では共産党は常に絶対的な真実に対する権利を有している。

 

 「それで、最初に歴史の権威ある評価を与えることは、しばしば党の専決事項である。それで通常重要なのは、枠組みを設定することであり、そして歴史家はその枠組みに当該事実をどのように適合するのかを考えなければならない。」

 

 この枠組みにおいて党指導部の壊滅的な過ちに対応するには、依然として知的歪曲が必要である。つまり、党は絶対的な権力への主張を危険に晒さないために、多くの事実を隠蔽したり、再解釈したり、軽視したりしなければならない。すなわち、農地改革の残虐行為と1950年代の「大躍進」の3000万人以上の死ー最大の人為的飢饉につながった誤った工業化キャンペーン。そして最後に、1966年からの文化大革命の10年間。この期間の暴力と混乱は、何百万もの中国人民を殺し、今日でも無数の家族を傷つけている。

 

 党の歴史の深淵に取り組む試みは、常に短命であった。1976年の毛沢東の死後、窓が開いた。中国の経済開放を開始した鄧小平は、1978年に思想の自由を求めた。

 

「多くの重要な問題は1人か2人によってのみ決定され、他の人は従うことができるだけで、自分で考える必要さえない」と、鄧は演説で権力の中央集権化を批判した。

 

 長期独裁者の毛沢東の死後、政治的に党の方向性を変える試みがなされたが、党の権力独占は決して揺るがなかった。それにもかかわらず、中国ではより多くの民主主義への要求が生じ、1989年春に全国的な学生抗議で最高潮に達した。彼らは1989年6月初旬に天安門広場周辺で流血をともない抑圧され、反革命と名付けられた。ヨーロッパでの鉄のカーテンの崩壊後のソビエト連邦の崩壊は、中国でも大きな反響を呼んだ。ソ連の運命は、依然として中国共産党によって権力の手綱を緩めないように明確な警告として見られている。習近平国家主席はこの伝統に従う。

 

共産党によって始められた中国的特徴を伴う社会主義の道は正しい。これを続けなければならない。我々はそれから決して逸脱してはならない。」

 

 習は、歴史的な使命を担っている。毛沢東指導下の共産党が新しい中国を建設した。習の指導の下で、共産党は中国を新しい段階に導く。

 

 彼は再び権力を中央集権化し、毛沢東死後に党が使用を中止した支配装置を利用している。そしてこれには、今日の中国で再び広まっている個人崇拝が含まれる。 


 この個人崇拝は、中国中部の革命都市延安から東へ車で1時間半ほど離れた場所で、特にはっきりと体験できる。梁家河村は狭い谷間にある。近年、中国中部で最も有名な観光地の一つに発展した。その理由は、梁家河周辺ののどかな緑豊かな山々によるものではなく、1960年代後半から1970年代半ばまでの、この村の最も有名な居住者である習近平国家・党主席によるものである。

 

 現在の国家元首は、文化大革命の結果として1969年に梁家河にやって来た。「山を登り、村に下る」をモットーに、1000万人以上の若い都市住民が農村部と未開発地域に送られ、称されているように、労働者・農民階級から実際の生活を学んだ。全国の学校や大学は、当時は共産主義イデオロギー的熱意から閉鎖されていた。習近平は当時、梁家河村の地元の泥だらけの山に掘られた洞窟住居に住んでいた。

 

(続く)