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Das ist ein Tagebuch...

民主主義のない資本主義

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 ドイツ紙(ZEIT online)に、気になる記事が掲載されていたので、雑に和訳してみる。

 

 記事のタイトルは、"Systemwettbewerb: Kapitalismus geht auch ohne Demokratie"(システム競争:資本主義は民主主義なしでも機能する)。「西洋型の市場経済は時代遅れになる可能性がある。中国は現在、データ主導の国家資本主義がどのように機能するかを世界に示している。」トーマス・ベショルナー(Thomas Beschorner:ザンクトガレン大学ビジネス倫理学教授・ビジネス倫理研究所所長)・ミリアム・メッケル(Miriam Meckel:ザンクトガレン大学コミュニケーション管理学教授)・レア・シュタインアッカー(Léa Steinacker:ADA CSO)。によるエッセイ。以下、内容である:

 

 
 近い将来、資本主義がより良いシステムに取って代わられることが期待されている。そして、ついに純粋な自由市場の起源に戻ることができるという希望がある。二つの立場のどちらを好むか、三つ目のバリエーションもある。それは、データに基づく計画経済の活性化である。

 

 そのようなものが今、中国で発展している。データ主導の国家資本主義がそこに出現しており、それは市場経済の個々の要素に挑戦するだけでなく、西洋型の資本主義と競争する可能性もある。

 

 システム競争という概念は、ベルリンの壁の崩壊とともに、実際には時代遅れになった。それは以前、二つのシステム間の競争、一方では市場経済的民主主義秩序と、他方では統制経済秩序あるいは計画経済秩序との競争を特徴づけていた。前者は1989年以来勝利を収め、それ以降はほとんど競争することなく社会の運命と歴史を組織することになっていた。


 フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクやルートヴィヒ・フォン・ミーゼスなどの新自由主義経済学者は、機能的に優れた社会組織として、早い段階で民主主義的資本主義社会を予期していた。なぜなら、分散型市場経済は、集中型計画経済よりも柔軟で革新的であるからである。その約50年後、ノーベル経済学賞を受賞したオリバー・E・ウィリアムソンが分析的により正確に主張したように、計画プロセスは、取引コスト、特に管理コストが相対的に高くなるため、効率的ではない。したがって、計画経済組織も計画経済社会も長期的には成功することはできず、市場経済インセンティブによって制御される分散型システムに勝利することはできない。

 

 しかし、現在のデジタル化の進展は、(体制間の)ゲームを振り出しに戻している。ビッグデータ人工知能は、中央集権化された社会におけるウィリアムソンの意味での取引コストを、最小限に抑えるのに役立つ。社会指標を使用して、「計画者」の要求に応じて自動調整システムを導入できる。


 したがって、結果は明らかであるが、死亡宣告された計画経済が、新しい技術的可能性を利用して、民主主義的資本主義社会に対する新たな競争を仕掛けてくる可能性がある、新しい体制間の競争を予測している。


 この評価は理論上のものだけではない。むしろ、そのような開発はすでに中国で非常に明確で完全に実用化されている。中国には計画があるからである。これは、中央集権型計画経済にとって珍しいことではない。しかし、この計画にはすべてがある。それは、我々が数年にわたって観察してきたように、政治的国家権威主義市場経済要素を組み合わせるだけでなく、最新の情報通信技術の使用によって新しい形態の社会統制の確立を提供する。

 

 以下の点で、四つの発展が特に我々に関連しているようである。

 

 まず、中国はデジタル技術革新の分野で世界をリードする国の一つである。『中国製造2025』により、中国は3年前に、経済生産における国産品のシェアを2025年までに70%に増やすという目標を設定した。2017年に採択されたAI戦略(次世代AI開発計画)により、中国は2020年までに米国に追いつき、2025年までに米国を追い抜き、2030年までにこの技術で世界をリードすることを目指している。中国はすでに、プラットフォーム戦略(WeChatなど)と識別技術(顔認識など)の一貫したアプリケーションのリーダーである。

 

 第二に、中国の一党独裁の政治制度システムは、国が何の問題もなく新しい技術的可能性を検証し、実行することを可能にする。共産党政治局あるいは中央委員会は、個人のデータ保護または個人の権利に拘泥していない。14億人がデータソースとして機能しており、これは大きな可能性を生み出す。


 第三に、中国は、多数のデジタルおよびアナログ指標を使用して人々を評価および刺激することを目的とした、斬新で包括的なプロジェクトを実施している最中である。そのために、経営陣は野心的な経済計画を推進するだけでなく、2020年に全国的に義務化される包括的な社会統制システムを構築している。社会信用スコアは主に営利企業で使用されているが、一部の地域ではすでに政府がテストとして使用しており、市民はポイントシステムを使用して行動を評価される。祖母の世話をすることはプラスポイントをもたらし、個々のスコアを上げる。信号が赤のとき、または犬の行きたいという衝動が収まらないとき、人が通りを横切ると、すぐにスコアは下がる。プラスのスコアを持つ人々は、電車や飛行機のチケットを買う余裕があり、子供たちを良い学校に入れることができる。悪い評価の人はそれができない。

 

 かつてウラジーミル・イリイチレーニンが要求した数値データは少なかったと言われているが、それよりは洗練されたデータである。ビッグデータアルゴリズム分析を組み合わせることで驚くほど正確な結果が得られるため、これは21世紀の観点からはもはや矛盾ではない。したがって、レーニン4.0の計画経済は、まったく新しいタイプの中央行政経済の形で、資本主義市場経済の効率性原則を守ることができる。


 第四に、社会信用スコアの導入により、AI時代に属するものが同時に成長している。データ分析と予測は、人々が生活のあらゆる分野で徹底的に分析された場合にのみ完璧になる。レーニン4.0は、新しい計画経済をもたらすだけでなく、数学的関数が民主的な自己決定に打ち勝つ計量社会にもつながる。


 一部の人々はすでに、プラットフォーム資本主義とFacebookGoogle&Coの行動様式を、民主主義を体系的に弱体化させる新封建的発展として分類している。ただし、すでに説明した四つの段階では、データベースの未来は少しずつ一貫して進んでおり、まもなく中国から民主主義社会に広がる。なぜなら、最先端のテクノロジーは、常に快適さを求める人間の憧憬を利用しているからである。中国で実施された顔認識は、一元化されたデータベースの計画経済の基本技術として、世界の他の地域に輸出される可能性がある。具体的には、顔認識を介して生活のあらゆる領域にデータベースでアクセスできるという利点を活用できる場合、民主主義的なデータ社会の困難な構成要件は、背後に押しやられていく。最近発表された分析によると、たとえば、中国政府は、とりわけ、イスラム教徒の少数派ウイグル民族に対する標的を絞った迫害のために、この技術を使用している。システムの変更は、利便性と機会均等の間のトレードオフになりつつある。


 ある時点で、操縦桿を握っている人はいなくなるが、圧倒的なコンピューターシステムは存在する。システムは党幹部の恣意性と比較してより透明である可能性があるため、これは中国の人々には相対的な進歩としてさえ見えるかもしれない。しかし、これらの進展を考慮して、民主主義的資本主義が時代遅れにならないようにするためには、西洋社会はより綿密に検討する必要がある。

 

 それどころか、これは歴史的決定論にとっての弁論ではない。この道筋は計画されていない。おそらく、より良い変化をもたらすのは、ある意味で確立され過ぎたように見える資本主義システムの新しい課題である。資本主義社会で言われているように、競争は最終的にビジネスを刺激する。

 

 以上である。ざっと読んでみたが、これは恐ろしい記事である。データ管理に基づく超管理社会が中国ですでに実現しており、それが間もなく世界に広がっていくであろうというのである。その行き着く先は、人ではなく、人工知能、コンピュータによる人間管理とのこと。そうなれば、当然、人間はロボットと何ら変わりない存在(あるいはむしろ、ロボット以下の存在)となる。これはまさに悪夢である。

 

 犬の散歩で信号無視したらポイントマイナス5、電車でお年寄りに席を譲ったらポイントプラス10etc.…。個人の行動がすべて逐一監視カメラ等で監視され、それらの情報が一元的に管理されている社会…。その社会信用ポイントにより、個人が計量的に判定・評価され、レジャーに始まり子供の教育やキャリア等に至るまでの個人の全領域に対し、賞罰が自動的に下される社会。SF小説かと思いきや、すでに中国で現実化しているというのだから、驚愕である。そんな社会には住みたくないとは思いつつ、いずれ世界はそうなるだろうと言うのだから、これはやり切れない話である。

 

 同様のコメントを書いた気がするが、人は自然の一部である。人が人を完全に管理しようとすることは、人が自然を完全に管理しようとすることであり、それは土台無理な話である。それにもかかわらず、それを実行するならば、必ずどこかで大きく破綻するはずである。