QVOD TIBI HOC ALTERI

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空を実践する(1)

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 ブッダダーサ比丘の著作を読んでいる。今回は、Buddadāsa Bhikkhu, „Kernholz des Bodhibaums: Suññatā verstehen und leben.“(Hrsg., Buddhistische Gesellschaft München e.V., 2001)の第3部を、誤訳もあるとは思うが、自分の勉強用ということで、気楽に訳してみる。

 

第3部 空を実践する

 

「私」または「私のもの」として執着できるものは何もない。

  

第10章 縁起を省察する

 

 私たちは、皆が苦しんでいる精神的な病気について話し合い、その治療法であるsuññatā(空)の性質を調べました。それではここで、病気を治療するために必要な手順を見てみましょう。「私」と「私のもの」から遠離するという原則は、(病気の)予防と治療の両方に適用されます。しかし、どのようにそれを行うのでしょうか?

 

 身体的および精神的な病気は、さまざまな方法で治療することができます。ある一つの固定された方法だけに頼る必要はありませんが、それぞれの方法で、目標と結果は同じである必要があります。それは健康です。精神的な病気の治療も同様です。仏陀は、さまざまな人々、時間、場所、状況の要求を満たすために、幅広い実践を教えました。 「私」と「私のもの」の病気を一掃する多くの方法がありますが、どれでも上手くいくでしょう。何を使用するかは、実践方法によって異なります。

 

 ですから、私たちは多くの実践、多くの名称について聞いたことがあり、おそらく仏陀が八万四千の法門(dhammakhanda)を確立したと聞いて、恐ろしくなったことでしょう。さて、もし本当に八万四千の法門があったとしたら、皆さんはおそらく、全く絶望してしまうでしょう。皆さんはそれらすべてを学ぶ前に、死ぬでしょうーそれは不可能です。皆さんはいくつかを学び、それから忘れて、それからそれらをもう一度学ぶ必要があるでしょう。もう一度忘れ、さもなければ、それらはあなた方の中で完全に混乱するでしょう。実際には、仏陀が「何にも執着してはならない」という一言に要約した、一握りの主題だけがあります。この要点を聞くことは、すべての要点を聞くことです。この要点を実践することは、すべての要点を実践することであり、この要点の成果を受け取ることは、すべての病気を治すことです。 

 

縁起

 

 「私」と「私のもの」の病気を一掃するための、多くの方法のすべてが機能します。それはあなた方がどのように修行実践するのかに依存しています。一つの方法は、常に「私」と「私のもの」を、maya(幻想)、あるいは幻覚として見なすことです。これにより、法は、私たちに馴染みの一見堅実な存在である、自己の感覚を看破することができます。「私」と「私のもの」は、実際には単なる幻想です。これは、Paṭicca-samuppāda(縁起)の観点から自己を省察することによって、達成されます。

 

 縁起を理論的または技術的に説明するには、長い時間がかかります。理論の分野では、それが過剰に複雑な状態に達するまで、心理学と哲学の主題として精緻に解説されているため、この単一の問題だけで1〜2か月以上かかる可能性があります。しかし、実践の分野では、仏陀がほんの一握りと言ったように、縁起はまさにそうです。

 

 感覚の門の一つで形、音、香り、味あるいはその他の感覚対象との意識(viññāṇa)の遭遇は、パーリ語ではphassa(触)と呼ばれます。このパッサは、vedana(受:感覚)に発達します。ヴェーダナはtanha(渇愛)に発展します。タンハーは、upadana(取:執着)に発展します。ウパーダーナは、bhava(有:生成)に発展します。バヴァは「誕生」である jati に発展し、生から続いて、苦しみである老、病、そして死があります(phassa vedanā taṇhā upādāna bhava jāti jāra‑maraṇa = dukkha)。

 

 viññāṇa(識)が感覚の門で感覚対象に遭遇するとすぐに発生する、この受、渇愛などへの発達は、paṭicca-samuppāda(縁起)と呼ばれます。縁起とは、無知(avijjā)の影響により、他のものに依存している様々なものが、新しいものの発生のための条件を作り出し、それが他のものの発生のための条件を作り出すプロセスです。Paṭicca-samuppādaは、条件付きで一緒に発生する順序であり、(そこには)「自己」は見つかりませんが、相互に依存して発生し、最終的に苦の出現の条件を作成するものだけが見つかります。

 

二つの方法

 

 この教えを利用する方法は、依存の発生を許さないことです。これを行う方法は、感覚に接触した瞬間にこのプロセスをすぐに遮断することです。受の発達を許さず、満足感や不満感を生じさせません。受の発生がないとき、それから、「私」と「私のもの」である渇愛と執着の発生はありません。「私」と「私のもの」は、渇愛と執着の発生のすぐそこにあります。幻覚はそこにあります。感覚接触が生じるその瞬間に、触覚がそこで止まると、「私」と「私のもの」が生まれる方法がありません。精神的な病気も苦もありません。

 

 この最初の方法が不可能な場合は、別の方法があります。普通の人にとって、触が受に成長するのを防ぐことは非常に困難です。感覚接触があるとすぐに、満足感または不満感が常にすぐに続きます。法の訓練が一度もなかった場合、それは触にとどまりません。しかし、自分自身を救う方法はまだあります。つまり、受がすでに発達しているとき、すでに満足感と不満感があるときは、そこでそれを止めます。感情を単なる感情のままにして、やり過ごしましょう。満足や不満に応えて、これとあれを欲しがって、それが続いて渇愛になるのを許してはいけません。

 

 縁起のプロセスを止めなければ、心は、楽受からは欲望、渇愛、耽溺、所有、嫉妬などを醸成させるからです。苦受からは、傷つけたり、破壊したり、殺したいという欲求が生じます。このような欲求が頭の中にあるとすれば、それは受がすでに渇愛に発展していることを意味します。もしそうなら、その人は精神的な病気に苦しんでいるに違いありません。そしてその人を誰も助けることができません。すべての神々がやって来ても、助けることはできません。仏陀ご自身でさえ助けることができないと言われました。仏陀は自然の法則に対して力を持っていません。彼は他の人が彼の指示に従って修行することができるように教えを明示する人です。人が間違って修行するならば、苦を持っていなければなりません。正しく修行すれば、苦はありません。したがって、受が渇愛に発展した場合、誰も助けることができないと言われています。何らかの形の渇愛が生じるとすぐに、必然的に苦が存在するに違いありません。

 

 心の中で生じるその激動の欲求の中で、あれこれと欲している、あるいは、あれこれとしたがっている、欲望する人、自我の「私」の感情を区別する方法を見てください、あるいは、そんなように行動して、様々な行為の結果を受け取った人を、見てください。望むのは「私」です。物を欲しがっているとき、それは何らかの形で事物を「私の」ものとして、つまり「私の」地位、「私の」財産、「私の」安全、「私の」勝利として捉えます。

 

 「私」と「私のもの」の感覚は、ウパダーナ(取・執着)と呼ばれ、渇愛(taṇhā)から生じます。 目、耳、鼻、舌、または体から入る病原菌である渇愛は、執着の後に有が続くため、病気の症状として発症する程度に成熟します。執着は、有の発生を条件付けています。有とは「存在すること」と「持つこと」を意味します。何が存在しているのでしょうか?何を持っているのでしょうか?「私」が存在し、「私のもの」をもっています。Kammabhavaは、「私」と「私のもの」の発生を条件付ける行為(kamma)です。それが単に「バヴァ」と呼ばれる場合、それは「私」と「私のもの」の状態が本格的であり、病気が本格的であることを意味します。

  

(続く)