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空を知る(2)

 一方、suññatāは、心が何も握らず、執着していないときに持つ特性も示します。suññatāの最初の意味は、全ての事物の基本的な特徴を示し、二番目の意味は、執着していない心の特徴を示します。

 

 通常、心は実際に空ですが、常に概念に関わっているため、空を認識できません。心は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の知覚に基づいて形成された、自我の概念の醸成に悩まされています。その結果、心は、それ自体および事物の空性に気づいていません。しかし、心がそれを罠にかけるものを完全に取り除くとき、つまり、妄想と無知を引き起こす愛着と執着を取り除くとき、この無執着によって、心は、suññatäの特性を有することになります。

 

 二種類のsuññatā、すなわち、執着していない心の空と事物の空は異なりますが、互いに関連しています。実際に空の特徴を有しているので、事物は人が掴んで執着することができる、いかなる形の永続的かつ独立した本質を持たないので、私たちは、それらの空性を認識することができます。事物が実際に空でなかったなら、空を見るのは不可能でしょう。

 

 現状は、全てが空ではありますが、私たちは空とは見なしません。煩悩と無知に覆われた心は、それが何であれ、自分のために事物に執着し、愛着します。細かい埃でさえ、埃そのものと見なされます。それは第二の、別個に存在する「人格」のように経験されます。私たちは自分自身を「一人称」と見なし、他のすべては「二人称」になります。私たちはそれらに、これまたはあれとラベルを付け、それらを永続的で独立した実体として、別個の個体として見なします。

 

 このため、"suñña"という言葉の意味を、完全に正しく理解する必要があります。一方では、空こそが万物の本質であり、他方では無執着の心の特性であることを認識してください。最初のタイプの空は認識の対象であり、二番目のタイプはその認識から解放されている心の性質です。そしてそれは、法を正しく実践した成果です。ですから、万物においてsuññatāを知覚する心は、それによって溶解し、空だけを残します。心はそれ自体が空になり、埃から涅槃まで、すべてを空であると見なします。物質的対象、人、動物、場所、時間、空間、それが何であれ、万法はこの真実の知識を通してsuññatāと融合します。これが、"suñña"、あるいは"suñña"という言葉の完全な意味です。

  

 それ故、「空」という言葉は、エゴとエゴイズムの完全な絶滅、「私」と「私のもの」の経験の完全な消滅と同義であることは明らかです。

 

 自己とは、心が掴み、執着すると生じる、単なる相対的な状態なので、私たちは、それが空に過ぎないとことを知ります。自己とは、無知と欲望によって条件づけられ生じます。そうしたくなくても生起します。心は無知なので、自然に執着が生じます。意図的に努力したり、意識的にあれこれを、自己としてとらえたりしなければならないわけではありません。心に無知が含まれているとき、意図的な意志を必要とせずに、心が自己であるか、または自己を持っているかのように、必然的にすべてのものを経験します。

 

 正しい理解(正見)が生じると、すべてのものが実際にそうあるように見えるようになるので、suññatāが自己の完全な絶滅であるという真実がわかります。これが基本原則です。このため、「完全な絶滅」という表現を、正しく理解することに注意を払う必要があります。

 

 どの絶滅が不完全で、どれが完全なのでしょうか?不完全な消滅は、純粋な形態や形の変化を表しています。ある形は消滅しますが、新しい形の萌芽は残ります。心の中では、このことやあのことを常に把握し、執着しています。

 

 まだ頂点に達していない"Dhamma"あるいは"sati-paññā"の知識は、ある種の執着を滅することができるだけであり、しばらくの間、執着のいくつかの側面のみを消すことができます。細かい埃を自分自身として見ない人もいるかもしれませんが、スズメはそのように見ることができます。他の人は樹木や動物を独立した存在と見なさないかもしれませんが、人間はそう認識します。人間を永続的で独立した存在と見なすと、身体は自己ではなく、心が自己であると言う人もいます。これは不完全な消滅と呼ばれ、一部の側面は消滅しますが、他の側面は依然として自己のままです。心が自己ではないことに気付くかもしれませんが、それでも美徳などの心の特定の性質を、自己であると執着しています。あるいは、これらすべてが自己ではない場合、時を超えて永遠で不変であるものは、涅槃の元素である自己であると信じることができます。この種の絶滅は、常に病原菌を残します。私たちがそれらすべてを一掃し、涅槃の元素でさえ自己として考えないとき、それは自己と利己主義の真の完全な絶滅と呼ばれます。

 

 それ故、「自我の完全な絶滅」という表現は、自我意識が生じないことを意味します。しかしもちろん、それを実践する必要があります。つまり、エゴが生起するのを防ぐ必要があります。このように絶えず実践していることは、エゴの完全な絶滅として説明することもできます。適切または完璧な実践とは、自我意識が生起する方途がない実践を指します。言い換えれば、私たちは自我意識が生起するのを刻々と阻止します。

  

 これまで議論してきたことは、「自我の誕生」という文を理解するための基礎となります。ここでの「誕生」(jāti)とは、子宮からの誕生を意味するのではありませんが、この文脈では、精神の領域、その思いや考えの中で起こる誕生を指します。私たちがここで話している誕生は、精神的な経験の中でのみ生じます。

 

 「私は私です」と感じるとき、私たちはどこでそれを経験しますか?この気持ちは心に浮かびますので、気をつけてください。誕生はそこで起こります。したがって、この「誕生」は、肉と血でできた身体の物理的な誕生ではありません。たとえ小さな体がすでに子宮から出てきたとしても、肉体的な誕生は、精神的な誕生、自我意識の誕生、「私は私です」が生起するまで、完全に無意味であると見なし得ることを理解する必要があります。身体は、自我を掴み、執着するまでは、肉の塊に他なりません。そうして初めて、この肉塊の誕生が完了します。それは、内に自我の感覚があることを意味します。

 

 したがって、誕生の本当の意味は、この一個の自己であるという感覚によって定義されます。子どもが物理的に生まれた後、自我意識が生じた瞬間、「子どもが生まれた」と言われます。この感覚がなくなるとすぐに「子供は死んだ」ことになり、体は再び肉塊になります。自我の創造を刺激する気持ちがなければ、子供が生まれたとは言えません。まるで死んでいるようです。すると突然、感覚対象と接触する瞬間に、再び自我意識が生起します。したがって、「子供」は新たに生まれ、その直後に「子供」は再び死にます。ですから、人は一日に何度も生まれていると言えます。しかし、自我意識の発生が妨げられるような生き方をすれば、新たに生まれることはありません。その時人は、suññatāに住しています。

 

(訳了)