QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

空(4)

 私たちが本当にすべてを知っていれば、この無知な執着と固執は生じません。私たちがそれを知らず、愚かで惑わされた動物的本能に盲目的に従うならば、それは何度も何度も無明の法への扉を開きます。

 

 私たちは、計り知れないほどの期間にわたって、受け継がれてきた遺産であるかのように固執し、執着することに満ちています。生まれた時から、私たちは自分自身とそれに属するものを執着する方法でのみ、無知の方法でのみ行動するように、私たちの周囲の人々によって訓練されていることがわかります。この条件付けの一部は意図的に行われ、一部は意図的ではありません。しかし、私たちが無我のやり方で訓練されたことは、一度もありません。子供たちは、この類の教育を受けることはありません。彼らはただ、自我に関して教えられるだけです。元来、子供が生まれたときの心には、自我の感覚はほとんどありません。しかし、環境は、それを掻き立てて発展させます。子供が目を開けたり何かを感じたりするとすぐに、「私の父」、「私の母」、「私の家」、「私の食べ物」として、それに執着するように教えられます。子供が食べる小さな皿でさえ、「私のもの」でなければならず、他の誰もそれを使用することは許されていません。この意図しないプロセス、つまり子供の自我意識の発現、発達、成長は、固有のルールに従って継続的に行われます。子供が大人に成長するまでに、彼または彼女は、惹起された執着と精神的な汚れ(煩悩)で満ち溢れます。ですから、私たちにとってエゴは人生と同義であり、人生はすなわちエゴです。しかし、本能的に自我に執着することが普通の生活である場合、その生活は苦と密接に関連しています。それは重く、抑圧的で、絡みつき、制約的で、息苦しく、突き刺し、そして燃えています。それは苦のすべての症状を示しています。

 

 私たちの文化と生き方がこれらの法を促すので、愚かさ、無明、無知の法は、生起し続けます。一方、知恵の法は、奨励されていません。結果として、私たちは「原罪」の罰に服さなければなりません。私たちは、自分の教訓を学ぶことなく、常に自我の幻想と見かけ上の独立に惑わされることで罰せられます。若者は、この罰に気づいていません。中年も気づいていません。そして多くの老人でさえ、それを気づいていません。少なくとも中高年では、罰を避け、生と死の循環(vattasaṁsāra)の檻から抜け出し、明晰さ、自由、無限の安穏を達成するために、この事実を認識することができるはずです。

 

 ですから、例えそれが善であっても、何かに執着し固執することがあれば、それは苦です。この意味で、世界が善であると想定するのは、実際には偽りか、あるいは誤りです。善はまだ苦です。善はそれにふさわしい苦を有しています。それは空ではないので、まだ阻害されています。空があり、善を超越している場合にのみ、苦からの自由があり得ます。

 

 したがって、"sabbe dhamma nalam abhinivesaya"という偈で説明されているように、仏教の教えの主な原則は、自己であるか自己に属するものとして物事に執着したり、固執したりすることを完全に排除することに他なりません。それ以上のものはありません。

 

 私たちが執着と自分とを完全に同一視しているとき、私たちと執着が本当に一つになっているとき、私たちは何ができるでしょうか。そのような状態にあるとき、誰が心を助けることができますか?この質問への答えは、やはり心に他なりません。

 

 すでに述べたように、法の他に何もありません。虚偽は法であり、正しさは法であり、苦は法であり、苦の根絶は法であり、苦を排除するための道具は法であり、身体は法であり、心は法です。「善い」か「悪い」かを問わず、どのように呼ぶかは重要ではありません。

 

 ある人が、外界と接触する際に、気づきと知恵をともない、ますます発展するとき、私たちはその発展の成果を、「善」あるいは「功徳」(puñña)と呼びます。他の人が外界との接触に惑わされ、ますます愚かになるとき、私たちはそれを「悪」あるいは「不善」(pāpa)と呼びます。

 

 観察してみると、誰もが平等に生まれていることがわかります。私たち一人一人には、眼、耳、鼻、舌、体、そして心があり、私たち一人一人の外部には、色形、音、香り、味覚、触覚および精神的対象があります。私たち全員がそれらに触れる機会があり、私たち全員が全く同じ方法でそれらに接触します。では、なぜ愚かさ、不利益と害悪の道をたどる人々と、知恵、功徳および利益の道をたどる人々との間に、このような隔たりがあるのでしょうか。

 

 これらの有害な法は、人々の真の保護であるという意味で、それには良い面があります。私たちが苦しみを経験した場合、それを覚えているという原則に基づいています。それは炎を掴もうとする子供のようなものです。結果を確認した後は、再びそれを行うことは、ほとんどありません。物質的なものなら簡単ですが、執着して固執している炎、貪欲、嫌悪、妄念の炎を掴むことに関しては、私たちのほとんどは、炎を掴んでいることにさえ気づいていません。それどころか、私たちはそれらが好ましく望ましいと誤って信じているので、懲らしめられず、そこから学びません。

 

 唯一の救済策があります。それはこれらの法の本質を認識し、これらの法が炎であり、それに執着したり固執したりすることができないことを知ることです。これは真実の道を歩むことですー気づきを識別し、そこから学び、何かが「私」または「私のもの」として把握されるときはいつでも、炎が点火されることを思い出します。それは手を火傷させる火ではなく、心と精神を燃やします。火が燃えていることに気づかないほど深く燃えることがあるので、私たちは、Vattasamsara(生と死の循環)である、燃えるような塊に沈みます。そこでは、鍛冶場よりも熱い、最も熱い火があります。(一度ひどい目にあったので)二度と火をつかもうしない子供のような経験をしなければ、そのようになる可能性があります。

 

 このように仏陀は、執着や固執が苦痛をもたらすという結果を目にするとき、心は執着を緩めるだろうと説明しました。ですから、問題は、執着の結果によって生じた苦痛を見たことがあるかどうかです。執着を緩めていなければ、それは緩和しません。執着を緩めていなければ、空ではありません。別の機会に、仏陀は、空を見るときはいつでも、涅槃に満足を見いだすと教えました。自我の不在を見始めたときだけ、心は涅槃の発見を学ぶでしょう。目、耳、鼻、舌、体、または心を通して知ることができるものはすべて、ayatana(処)と呼ばれます。涅槃は、体験できる法の一つであるため、ここではアーヤタナと呼ばれています。どうしてそんなにも愚かで見えないのですか?自我がない状態に気づいた瞬間からそれを見ることができます。そうすれば、執着と固執を手放すことにより、āyatana nibbānaに満足するでしょう。しかし、それは難しいことです。先程も言ったように、私たちの生活は常に執着することによって成り立っています。これが減らされなければ、空はなく、したがって涅槃の経験は、ありません。

 

 他の宗教を見れば、この点が真実かどうかがわかります。他の宗教には、attavadupadana(「私」または「私のもの」であるとして、法を掴み、執着すること)という言葉がありません。なぜそうなのでしょうか?それは、彼らが自我に執着し、固執することを教えているからです。そのような執着が間違っているとは思わず、それは正しくなり、実際、それは宗教や宗派の目標になります。彼らは自我の達成を教えています。しかし、仏教の教えでは、attavadupadanaは、愚かさと無明として、煩悩として指定されており、仏教の実践は、その完全な放棄にあります。その結果、無我の教えは仏教にのみ見られます。自我を把握する、あるいは達成することを教える宗派とは異なり、私たちは自我の完全な破壊を教えます。つまり、無我の状態、すべてのものにおいて自我のない状態を知覚するための意識、です。

 

 ですから、無我は仏教徒だけが語っています。悟りと自覚は、すべてのものが無我であり、執着したり、固執したりしてはならないことを教えられた人々にのみ、生じる可能性があります。執着し、固執しなければならない自我があると教えられた場合、自我の不在の真理を実現するために実践できる方法は、ありません。

 

 したがって、火傷を恐れるために火事の危険性を見る必要があるのと同様に、すべての火事の根本原因であるもの、貪欲の火事の危険性も見る必要があるという点を検討する必要があります。すなわち、それに徐々に飽きて嫌悪し、これ以上、火をつけることを考えずに、それへの執着を緩和することができるようにするために。

  

(続く)