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Das ist ein Tagebuch...

ナチズム:形成された民族(2)

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 ヒトラーは、ワイマールの上部構造から解放された別の概念を説く。彼は「47政党の権限ではなく、ドイツ民族の権限に」自分自身を宣言することによって「民主主義を排除するのではなく、それを単純化した」ーこれは総統国家を真の、偽りのない国民主権として再解釈する創造的公式である。ヨーゼフ・ゲッベルスもこのことを記録している。ワイマールの「闘争の時」において、扇動者の長(ゲッベルス)は、民主的にそれを廃止することができるという点を民主主義の唯一の利点と見なしていた。しかし、1933年以降、新しい主張が鳴り響いた。「我々は真の民主主義を有している。さもなければ、指導部は人々を投票するように呼びかけることを敢えてしなかった。」

  

 これらのプロパガンダのバブルは、新しい支配者が民主主義の家を破壊していることを証明しているが、言葉なしでは廃墟を乗り越えることはできない。国民を正当な統治の基礎であると宣言する、何十年にもわたって成長してきた政治文化を、一夜にして覆し得る強力なプロパガンダは、存在しない。たとえば、イタリアのファシストとは対照的に、国民社会主義者は、伝統に忠実に民族について言及し、「総統」に民族の意志の化身を見ることをはばからない。国民主権に関しては、ナチス政権は伝統の破壊を宣言するのではなく、完璧な実行を主張する。国民投票は、投票用紙が作成された紙でさえ「総統」と「民族」の間に収まらないことを国内外のすべての疑惑者に明らかにすることを目的としている。

 

 …フリック内務大臣は、厳格なワイマール選挙規則を単に無効にするのではなく、1933年11月にはそれらの遵守を注意深く監視した。最高のワイマール時代のように、形式的には自由かつ秘密裏に投票されるべきであった。秘密投票がガラス製の党金庫と同じくらい有用であると考える地方の褐色のシャツ(SA)は、フリックから投票への呼びかけを止めさせられ、むしろ「プライバシースクリーン」を設置するように指示されている。なぜユダヤ人にも投票を許可されているのか、党員にはさらにはっきりしない。彼らの投票権が撤回されたのは1935年になってであった。民主的な形式を維持するために、ナチス政府は多くの矛盾を受け入れた。選挙区は強制収容所にさえ設置されている:政敵は迫害され、虐待され、閉じ込められるーその後で投票に呼ばれる。

 

 しかし、1934年8月19日のヒンデンブルクの後継者に関する国民投票では、予期せぬことが起こった。ヒトラーに「たった」89.9パーセントの賛成票である。1933年11月の投票と比較して、反対票の割合は4.9パーセントから10.1パーセントに倍増した。形成されつつある「民族共同体」の自己イメージに属さない、承認の減少の微妙な兆候。内部的に、ゲッベルスはこの「失敗」について語っている。

 

 この点において、1936年3月にラインラント進駐後、国会選挙が1回だけ予定され、NSDAPに賛成か無効かを選択するようにしたのは偶然ではない。党は選挙バッジを配布し、非投票者に対し反対の歩調を強める。そして、無効な投票用紙でさえ、今や賛成票に変わっている。かつて法の擁護者であったフリック内務大臣は、投票行動の特異な解釈に到達した。それによって、バツのない投票用紙が承認として数えられるようになり、NSDAPの一党支配は自明のものとなった。当然のことながら、NSDAPは驚くべき98.8パーセントの賛成票を達成した。一部の地区では、賛成票はそれをさらに超えさえした。ケルンでは非常に多くの偽の投票用紙が投票箱に入れられ、賛成票103パーセントと発表された。恥ずかしい?すべての記録によれば、選挙結果の公正さを信じるものはもはや誰もいない。1938年のオーストリア併合に関する国民投票の後、亡命したSPD党員は、忠実なナチ党支持者でさえ賛成99パーセントを真面目に受け止めていないと確信している。

 

 選挙結果と同様の超現実的な、一党制国会はある珍しい集会場に登場する。火災の後、国会はベルリンのクロルオペラハウスに移転する。ベルリンのクロルオペラハウスには、もはやNSDAPメンバーと数人の準党友しか議席を有しない。時折、ヒトラーが政府に最善を尽くすと宣言すると、国会議員はナチス式敬礼をしたり、大きな拍手をしたりして、公演は終了する。国歌とHorst Wesselの歌を披露したときにのみメンバーが様になるため、民衆はこの傀儡議会を「世界で最も高価な男声合唱団」と嘲笑した。法律上、国会は立法府のままであるが、立法権は装飾的な価値しかない。1933年3月に権限を剥奪された後、国会は十九回開かれ、七本の法律を可決した。何よりも、全権委任法の延長が二度議題になっているのは皮肉なことである。

 

 政権の実際の「国民投票」は他の場所で行われているが、国民社会主義者は議会のダミーを舞台として提供している。新しい「国会」はニュルンベルクの党大会会場で行進し、そこでルドルフ・ヘスは「最も現代的な国民代表」が集合しているのを目にする。あるいは、"Reichserntedankfeste"の会場であるハーメルン近郊のビュッケベルクで。そのような宣伝の光景では、民族は一枚岩の熱狂的支持者の群れとして、統一された応援団として現れる。これはまさに民主主義の伝統に対する崩壊線が引かれるところである。国民社会主義者は、国民主権を放棄することによってではなく、根本的に異なる「民族」の概念を採用することによって、民主主義を否定する。人種的に意図された「民族体」と「民族共同体」には同じ血と意志が浸透し、共和国の異質な有権者とはもはや共通点が存在しないのである。

 

 階級や政党を超越する全体としての民族の概念は、国民社会主義の特許ではない。それは第一次世界大戦中、そして特に敗北の衝撃の後に流行した。相当数の人々が「1914年の精神」の中に、非常に険しい共和国に対する魅力的な対応物を見た。それゆえ、異なる意味であっても、ほとんどすべてのワイマール政党は党旗に「民族共同体」と書き込んだ。ナチス運動はこの言葉を最も根本的かつ効果的に乗っ取った。なぜならば、国民社会主義者は「民族共同体」について演説するだけではなく、それを絶え間なく称賛したからである。数多く開催された大規模なイベントの一つに参加した人々は、力強く舞台設定された共同体の一員として自らを体験することができた。

 

 偉大なる全体へのこの感情的参加は、1933年以降の政治的無力を補うことを目的としている。国民社会主義の人々は発言権を持つことは許されていないが、ともに歌い、ともに応援し、そして、ともに行進する。もちろん、これは人種的に同質で、遺伝的に健康かつ生産的な共同体の要件を満たす人にのみ適用される。この条件を満たさない者は誰でも深淵に落ちる。「全体」の喚起は「全体」の人々を意味するのではなく、鋭く致命的な線を引いたときに選抜されたとしか感じられない民族的エリートを意味する。 「共同体にとってのよそ者」を根本的に排除することによってのみ、「民族共同体」が形成される。ナチス政権によって迫害されたユダヤ人やその他の犠牲者にとって、彼らが選挙に参加することを許可されている期間は問題がなかった。現実には、彼らは民族の敵に他ならないというしかないのである。

 

 以上である。特にこれといった新しい視点も知見もないので、コメントもない。平凡な記事であると思う。とはいえ、高校生の時から持ち続ける私の個人的なある妄想ーそれは、実は、民主主義的価値観を否定する第三帝国の後継者は、多かれ少なかれ、世界各国になおも存在し、それは、極東のある島国では支配的地位すら占めている、という妄想ーを、補強する記事であった気はする。