QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

何もしない(2)

 理性があればそのようにできます。この手で何をすることもできます。行為の主体である俺、俺のがない、ただの動作にします。正しいのは、何もする必要がないということです。自分がなければ何もする必要はありません。一方の「した仕事」は、純潔な体、純潔な心、純潔な知性、純潔な自然がしたことです。その中には自分、自分のもの、という考えがありません。俺、俺の、がありません。だから苦はありません。

 ブッダが『執着は苦である。俺、俺のという執着があるときに苦がある』と言っているのが理解できます。俺、俺のという執着がなければ、何も苦はありません。もし俺、俺のという執着がなければ、生まれることも苦ではなく、老いることも苦ではなく、死ぬことも苦ではありません。

 みなさんはブッダの言葉を聞いても良く理解できません。生は苦、老いは苦、死は苦と聞くと、何もかも苦だと誤解します。ブッダがここで言っているのは、自分が生まれたと捉えている生、自分の老いと捉えている老い、自分の死と捉えている死という意味です。それが苦です。そう捉えなければ苦ではないからです。どの生老死も、みんなただの動作でしかありません。掌握する意味がある時、生老病死としての意味があります。

 ブッダは、『生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦』と、正しく言っています。しかしブッダの言っている意味は、その中に執着があるというところに意味があります。これは、『苦である執着でできている五蘊』というブッダの言葉で知ることができます。執着でできていない五蘊は苦ではないという意味です。心身が純潔、あるいは空なら苦ではありません。心身に俺、俺のという執着があれば、途端に苦になります。

 このように正しく理解してください。これはブッダが言った正しい真実ですが、人は理解できません。五蘊と名がつけばすべて苦だというのはバカです。間違いです。ブッダの言葉を勘違いしています。それで動きや行動があると、すべて煩悩だと理解します。願望があるとすべて煩悩だとします。タイの仏教徒の誤解です。仏教が繁栄していると言われるタイでも、これほどの誤解があるのです。

 希望や願望は、無明、欲望、執着と関りがなければ、煩悩ではなく苦もないと理解を改めましょう。もう一度聞いてください。みなさんの希望や願望は、何をしたいと望んでも構いません。無明、欲望、執着に関係がなければ煩悩ではありません。その希望、願望、願いは煩悩ではありません。欲望とは呼ばないし、執着とも呼びません。そして苦ではありません。

 もしその願いが無明に関連していれば、その願いは煩悩です。欲望であり執着であり、苦です。ですから知性で、明で、空の心で願望してください。無明や欲望や執着に覆われた心で願ってはいけません。無明、欲望、執着のない心、つまり良く訓練された知性で希望してください。こういうのは欲望でも執着でもありませんし、苦ではありません。

 阿羅漢の方々が私たちよりたくさんの仕事ができ、良い仕事ができるのと同じです。行動があれば、阿羅漢の方たちはあそこへ行ってあの人に教えたい、ここへ行ってこの人に教えたいと、このように願っていました。阿羅漢にも願望があり、あれをしたりこれをしたり、往き来したり、行動がありました。しかし阿羅漢の方々は欲望、執着、無明のない空の心で行動しました。私たちも少しずつその後を追うよう努力して、阿羅漢のように完璧になれるようにしましょう。

 みなさんがこうして座っている今、心は空です。良く観察してみてください。立ち上がって仕事をしに行くと、ほら、混乱してしまいます。仕方が間違っているからです。立って仕事をしに行くときでも、空のままでいてください。そうすれば何も害はありません。あるのは苦がないこと、望ましい結果ばかりです。これなんです。何でも空の心でしてください。簡単にできるからです。すでに空なんですから。ほんの少しの不注意で心を混乱させないでください。

 つぎは、非常に問題が多いことです。目を通して問題があり、耳を通して問題があり、鼻を通して問題があり、六根ぜんぶの問題があります。ですからサティをしっかり維持してください。そうすればサティで見守ることに成功します。混乱させないようにすれば、心は空でいられます。そしてその静寂を、水の本来の状態と捉えましょう。何も妨害するものがない時の水は、いつでも静かに鎮まっています。何か妨害するものがあれば、波立ちます。あるいは沸騰します。

 ですから水の本当の自然の状態は空であり、静かであり、輝いていて、何か妨害がある時、つまり無明、欲望、執着によって煩悩が生じます。その人のサティがぼんやりするから、波立つのです。あるいは沸騰するのです。だから元の状態が失われてしまいます。ここで元の状態を維持するよう注意をすれば、ほとんど何もする必要はありません。ただ注意深く見守るだけです。何も大げさな儀式めいたことをする必要はありません。何もしないだけです。何もする必要がない、の方が正しいでしょう。

 賢い人は、嘲笑するような、愚弄するような、まるで慧能の言葉のように、「大人しくしていなさい。突飛なことをしてはいけない。何でも奇妙にしてはいけない。なぜって普通では空なのに、何だって混乱させなきゃならないんだ」と教えています。注意ぶかく空を維持し、それを断固としたものにすれば、つまり知性が途切れないようにすれば、混乱することはあり得ません。そうすれば混乱は止まるだけです。それが、人の言うところの「何もする必要がない」です。

 もし勤勉なら、勤勉にジッとしています。作り出すことに勤勉ではいけません。勤勉にジッとして、静かな状態を勤勉に維持し、空の状態を勤勉に維持します。この言葉を仮に「何もしない」と言います。期待や煩悩、欲望、執着ですれば大混乱です。このように原則を知らなければ、自分が何を求めているのか分からないので、間違って混乱を求め、誤解して混乱を求めてしまうので、空にはなれません。

 自然では空でありそれが基本ならば、サティや注意力を磨いてその状態を維持し、その状態が絶対に変わらないようにします。習熟すればまったく途切れなくなり、すべてが空になります。このような空の状態には煩悩はありません。苦もありません。ですから、金言風に言えば、「空こそがブッダである。空こそがタンマであり、空こそがサンガである」です。

 あるいは本当の心があると仮定すれば、空こそが本当の心です。こう考えたり、ああ考えたり、何十にも変わるのは本当の心ではありません。空が本当の心です。だから本当の心という言葉を追加しなければなりません。ブッダは基本的に煩悩があると言っていない、ということを理解してください。初めにお話したように、ブッダは『煩悩は時々来る。通常心は空であり輝いている』と言っています。

 もっと確かな根拠を求めるなら、縁起を根拠にしましょう。ブッダは『触、つまり眼、耳、鼻などの刺激があると受(感情)がある』と言っています。触があるとき受があるのであって、基本的に受が生じているのではなく、かならず触があるときに生じるのです。一日二十四時間触がある訳ではありません。空きがあります。触があったときだけ、その時だけ受があります。受があるときだけ、欲望などがあります。

 ブッダは無明を発端にしているので、もし無明が家主なら、

   無明が行を生じさせ、

   行が識を生じさせ、

   識が色名を生じさせ、

   色名が根を生じさせ

   根が触を生じさせ、

   触が受を生じさせ、

   受が欲を生じさせ、

   欲が取を生じさせ、

   取が界を生じさせ、

   界が生を生じさせ、

   生が生老病死、つまり苦を生じさせる。

 これは、受がなければ欲がないことを意味しています。ですから受がない時は欲望も苦もなく、つまり空です。もし欲望だけが増大して執着になり界になるなら、それが生老死の苦になります。いつでもここで触の部分を取ってしまい、受にしないようにしましょう。あるいは受が生じてもサティをもって欲にしないようにし、明にしてください。無明にしないでください。そうすれば苦がないということです。

 ここで言う苦がないとは、生・老・病・死・所有できない・損・得などと呼ぶ行動に意味がないという意味です。だから苦がないのです。もし愚かなら、生・老・病・死などは苦を生じさせます。問題を生じさせます。私たちを臆病にさせ、怖がらせ、苦しめます。

 正しい理解があれば、つまり空の心があれば、生・老・病・死・利得・損害などは、すべてバカらしいもので、苦ではありません。もし無明から始まれば苦があります。明が根源なら苦はありません。どんな場合にも笑い飛ばせます。得も損も、望ましいことも、望ましくないことも。

 これは、『煩悩や、欲望・執着は基本的にあるものではない』とブッダが明言していることを表しています。欲望は受があるときだけ生じます。受も同じです。始終生じているのではありません。触があるときだけ生じます。触は根が無明の原則で働いたときだけ生じます。もし触が無明の法則で働かなければ、その根は根ではありません。無意味です。無能です。無明の威力で働く根は、色名が無明の配下にあるときです。

 名色、つまり私たちの心身はときどき無明の支配を受け、ときどき何の支配も受けません。たとえばいま誰でも色名があります。つまり無明の支配を受けない心身があります。それは空です。ぼんやりして無明に覆われた時はいつでも、触を生じるところの根を生じさせる色名があります。苦である類の受があります。

 それが空であり無明に覆われていなければ、体と心、あるいは名形は根、あるいは苦である種類の触を生じさせないということが分かります。根があり触が生じても、空の形で経過します。苦ではありません。ですから大丈夫です。嫌わなくてもいいです。その先へ進むと、ナーマルーパ(名色・心身)は行から生じます。これらのものは苦があるもの、あるいは苦のないものになります。つまり空か空でないかです。それは行ですから、必ず空でないようにします。

 識と呼ばれるものも同じです。この識とは、いつどの瞬間にもあるものと理解しないでください。受は根を通して刺激があった時に生じるだけです。たとえ生涯の識、界を通しての識と呼んでも、根を通して刺激があった時だけ識の働きをします。ですから明と無明だけだと見ましょう。無明があれば空でない方向へ経過し、混乱して苦があります。空は、それ自体を明とします。苦がないからです。混乱は愚かなので、無明であり苦です。

 空は天然の賢さですから、苦がありません。ですからこの天然の状態をいつでも維持します。それ以上のことはありません。つまり天然の空、天然の静寂、天然の清潔、天然の純潔、呼び方次第です。いつでも何も作り変えられていない元々の天然の状態にします。行が作り出さなければ空です。行が作れば作ります。無明が介入するからです。ですから正反対のものを持ってきましょう。つまり理性です。みなさんは賢くて、日に日に智慧が増していると言われるように。これを智慧があると言います。

 何かを知る智慧、周到に知る智慧が非常に敏捷で、出来事の発生と同時に働けば、それをサティと言います。その知ることができるものを、よく知っている、考えることができる智慧と言います。目や耳などを通して事が発生し、刺激があったときに間に合う、事態に間に合うようなのをサティと呼びます。本当には智慧と呼ぶところの知識です。それが基本にあれば、勉強することで増えます。

 このように思考したり熟慮するのを智慧と言います。目が形を見たり、耳が音を聞いたりすると同時に、駈け付けて来て事態に間に合う時だけ、サティがあると言います。このようなサティの勤めが終わると、また元の智慧に戻ります。ですからいつでも形勢を見張っているサティがあり、サティがぼんやりしなければ、その時はいつでも空です。なぜならサティは空であり、空のものだからです。

 ダンマは空です。たとえ本当のダンマでなくても空です。それは水が波立つように、無明の働きによって混乱します。しかし風が吹き付けているだけで、水には変わりありません。波の形になっているだけです。心も同じです。どちらも同じ心です。しかし混乱しています。私たちには苦である混乱は必要ありません。

 もし本当の空なら、自分だ、自分のだと執着しないでください。空のものは自分、自分のもの、と執着しません。混乱しているものにも自分、自分のもの、と執着しません。空にも執着しない、混乱にも執着しない、と言います。そうすれば天然の空のままです。だれも空の所有者はいません。これが仏教の核心である教えです。これだけです。ちょっと話すだけで、それで終わりです。しかし理解できたか理解できないかは、あとで考えてみてください。

 「サッペー タンマー アナッター」「サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」という言葉はここにあります。このような心にあります。すべての物に執着するべきではありません。すべてのものは実体がなく、空です。だから他のことを話したり、考えたり、憶えたりして堂々巡りし、無駄な時間を費やしてはいけません。空の話しだけを考え学び、憶えるよう努めてください。もし何かを聞いたら、必ず空の問題と照合してください。

 三蔵経の八万四千項目を、正しく理解すれば空の話しになるので、何もかも空の話しに集約されます。もし間違って理解すれば、あちこちに分かれ、地獄だ極楽だ、神だ梵天だ、善だ悪だ、だれのよりも良いなどと執着します。それは間違いです。正しく理解すれば、すべて空の話しになりますから、私、私のという執着はありません。これを空と言います。

 どんな心でも、自分、自分のもの、と執着するべきではありません。心のどんな感情も、自分、自分のもの、と執着するべきではありません。どんな具象も抽象もすべて、自分、自分のもの、と執着するべきではありません。ですから空の話しは本当のタンマです。あるいは本当のアピタム(深遠なダンマ)、究極のアピダンマ、最高のアピンマです。あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたい、素晴らしい、という話しなら、どんな風に解説してもアピダンマではありません。

 アピタンマとは最高のダンマ、それ以上に高度なものがない至高のダンマです。空こそが涅槃です。つまり究極の空は涅槃です。空の極致は涅槃です。だから今みなさんは涅槃の味見をしています。心が空っぽのとき、みなさんの心が空の時は、一時的な涅槃があります。ですからこの空を大切に維持してください。そして完璧な空になるようにしてください。それを完全な涅槃と言います。

 「究極の空は涅槃」というのは、私たちは基本的に空なのですから、基本的に涅槃があると捉えて、大切に維持して、より安定したものになるようにしてください。そうすればいつか変わることのない完璧なものになります。空が無くならないように、混乱と入れ替わらないように注意をするだけです。俺、俺の、を作らないで、じっとしているほかには何もしなくても良いのです。重要なことはこれだけです。

 

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 「何もしなくてよい」と聞くと、「何もしないようにする」人がいる。これでは何かしているわけで、何もしていないわけではない。結構微妙な所である。行為主体である人がいなくなればよいわけだが、なかなかどうして、人は自ら何かできると思っている。「何かできる」との思い込みが、なかなか取れないのである。しかし現実は、因によって生じ縁によってなされた事があるだけである。そこには自由意志はもちろんのこと、行為主体である人もいない。