QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

常陸国総社宮

 本日は、茨城県石岡市常陸国総社宮(常陸国総社)に行ってきた。変電所火災とやらで常磐線が止まり、後続列車との時間調整とのことで予定より約50分遅れて石岡到着。JR石岡駅からレンタサイクルにて急ぎ参拝。

 

表参道鳥居

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随神門

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本殿

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倭健命腰掛石

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御神木

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境内社

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旧参道鳥居

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 次に、時間を気にしつつ、観光案内所でもらった地図を片手に、龍神山の染谷佐志能神社(式内論社)に向かう。道中に青屋神社、若宮八幡宮といった小社を目にする。

 

若宮八幡宮

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 小規模な社にしては立派な随神門を構えるだけでなく、火灯窓の社殿もあまり見ない様式。

 

龍神

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 「常陸風土記の丘」付近までやって来た。しかし、Google Mapで確認しても染谷佐志能神社への道がどうしても見当たらず、レンタサイクル返却時間が近づいてきたので、やむなく石岡駅に帰還する。かなり無念である。石岡市近辺には見どころや式内(論)社が多いので、再度行くような気がする。

三嶋大社

 本日は、久しぶりに、三嶋大社伊豆国一宮)を参拝した。JR三島駅から清流の桜川沿いに歩いて参拝。

 

三島白滝公園

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大鳥居

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たたり石

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神池

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厳島神社

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総門

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神門

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舞殿

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摂末社(若宮社・見目社など)

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祓戸社

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 私にとっては馴染みの神社であるが、いつも人出が多いせいか、昇殿参拝しても、あまり感じるものがない。

姉埼神社&飯香岡八幡宮

 本日は、市原市の姉埼神社(上総国式内社)および飯香岡八幡宮国府八幡宮上総国総社)を参拝した。

 

姉埼神社

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摂末社(龍宮神社)

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水祖神社

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 JR姉ヶ崎駅から歩いて参拝。社殿は戦後失火によって焼失し、近年再建されたものであるが、良い雰囲気の神社。境内に円墳が三基、隣接地に大きな前方後円墳(釈迦山古墳)があり、上海上国造一族の墳墓と考えられるという。

 

飯香岡八幡宮

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放生池

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御神木

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 JR八幡宿駅から歩いて参拝。朱色の立派な社殿が印象的。前回参拝時にはスタンプ式の御朱印であったが、今回は直書きに変わっていた。なお、この神社に隣接して山祇神社という小社があり、一見して古墳のような気がするが、どうであろうか。

二宮神社(船橋市)

 本日は、船橋市鎮座の二宮神社(式内論社・下総国二宮)に行ってきた。JR津田沼駅から「二宮神社」行き京成バスに乗車、終点で下車、参拝。

 

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 堂々とした社殿である。軒の組物及び腰組には手の込んだ装飾も施されている。長年崇敬されてきた社なのであろう。

 

 一の鳥居をくぐると境内は谷間になっている。その谷間には参道を横切って小川が流れており、この小川を「寒川」、その水源を御手洗池と称するとのこと。恐らくそれが本来の祭祀の対象なのでは。柵があって近づけなかったが、良い気配を漂わせていた。

中山神社(さいたま市)

 天気が良いので、さいたま市中山神社(中氷川神社)に行ってきた。JR大宮駅から国際興業バスに乗り、「中山神社」にて下車、参拝。

 

一ノ鳥居

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二ノ鳥居

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荒脛神社

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稲荷神社

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楽殿

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御火塚

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拝殿

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本殿

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旧御本殿

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神池

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 氷川神社らしく、参道が長い。気配も素晴らしい。この神社には社務所がないので、御朱印は無理かなと思っていたが、拝殿に宮司様と思しき男性が昇殿しており、参拝者に朱印帳を渡しているのが目に入った。近づいてみると、御朱印の種類、何と100種類以上!選ぶのにも大変であろうが、どれでも直書きして下さるということで、驚いた。私は一番オーソドックスな御朱印を書いて頂いた。コロナ下ではあるが、御朱印ブームなのだろうか。

 

 飯田(水判土)の足立神社も行けるかなと思っていたが、バスの関係で大宮駅に戻るのに意外と時間がかかり、今回はこれにて帰宅した。

橘樹神社

 やっと天候が回復したので、千葉県茂原市橘樹神社(式内・上総国二宮)に行ってきた。JR本納駅から歩いて参拝。秋の爽やかな天気であった。

 

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神池(吾妻池)

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拝殿

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本殿

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本殿背後の古墳(伝弟橘比売命御陵)

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摂末社

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 十年以上ぶりの参拝。前回参拝時に比べて社務所等が整備されていた気がする。御朱印は書き置きのみとのことで、今回は頂かなかった。

 

 コロナが落ち着いてきているので、冬になるまでは、天気が良ければ、週末は、なるべく東京近郊の式内社参拝に出かけたいと思う。

氷川女体神社

 台風接近ということで、天候があまり良くなかったが、さいたま市の氷川女体神社に行ってきた。JR東浦和駅から国際興業バスに乗り、芝原小学校前下車、歩いて参拝。

 

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磐舟祭祭祀遺跡

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 書き込みの御朱印がもらえるかもしれないということで行ってみたが、書き置きしかなかった模様。折角なので一枚頂いてきた。続いてさいたま新都心中山神社(中氷川神社)も参拝しようかとも思ったが、天候が思わしくないので断念した。

 

 「常に間違ったことを探したりはしないでください。これはとても大切なこと。それを見ることができた時、あなたはわかる。どんなことであれ、腹を立てる価値のあるものなど全くない。たぶん誰かは本当に間違っていて、本当に悪いのでしょう。しかし、そのことで自分を不幸にする意味はあるでしょうか。」(Sayadaw U Jotika, "A MAP  of the JOURNEY.")

 

 良いことも悪いことも、生じたら即座に消え去る。どちらも留めておくことができない。握りしめることもできない。世の中の出来事は、全てこのように儚いものである。何事も一時も持続不可能なのである。

 

 それ故、過去に生じた出来事に対して怒り、嫉妬、憎しみなど、様々な感情を掻き立てて、しかもそれによって自ら苦しむのは、愚かである。何故ならば、すでに無いものが原因で苦しんでいるからである。無いものに対して腹を立て、妬み、憎悪するのは、滑稽である。

 

 しかし世の中、こんな馬鹿なことをやっている人間ばかりである。したがって、世間にはあまり関わらないのが得策である。

大宮氷川神社

 コロナ騒動以来、一度も参拝できなかった大宮の氷川神社武蔵国一宮/三宮)に、久しぶりに行ってきた。JR大宮駅から歩いて参拝。天候は曇天。

 

二の鳥居

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参道途中

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三の鳥居

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楽殿&額殿

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天津神社(摂社)

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松尾神社

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 大宮氷川神社摂末社の中で最も立派な気配を感じる社。社頭を通過するだけで強い檜の香りがする。

 

宗像神社(摂社)

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神池

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楼門

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門客人神社(摂社・地主神)

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舞殿

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拝殿

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本殿

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蛇の池入り口

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蛇の池

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 当然ではあるが、この神社は、素晴らしい気配で、参拝するとやはり清々しい気持ちになる。禁足地であったという蛇の池は、静かで落ち着いた場所であった。良い場所だったので、しばし佇み、短いが動画を撮ってみた。

 

キリスト教と仏教(11)

 仏陀とイエスが弟子たちに語った最後の言葉を考えると、もう一つの非常に注目すべき類似点が見つかります。イエスはこう言われます。「あなたがたは行って、…あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである!」(マタイ28: 20)。仏陀はこう言います。「私が創めてあなた方に教えた法と律(Dhamma-Vinaya)は、私の死後にあなた方の教師になるでしょう」(Mahā Parinibbāna Sutta, DīghaNikāya)。それから彼は「すべてのものは滅する。絶え間なく精進しなさい」という言葉で締めくくります。彼らの肉体的な死の時に、仏陀とイエスは、彼らの弟子たちが、彼らの実践を真剣に、そして粘り強く進めるように導くよう努めました。彼らは、教えがそれを実践する人々の心に固定されているという意味で、彼らが弟子たちと一緒に存在し続けるであろうと断言しました。

 

 キリスト教によれば、この状態は、「(神の)霊のうちに生きる」と表現することができます。仏教徒にとって、この状態とは、常に心にあり、純粋さ、明晰さ、そして絶え間ない静けさとして現れる、ダンマ・ヴィナヤに従って生きることを意味します。「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」という一節は、法の言葉で理解されるべきであり、可能な限り賢明かつ適切に解釈されるべきです。合理的な解釈の基準は、仏陀やイエスが私たちの内に絶えず留まっていると、誰もが見られるようになるということです。これを真剣に受け止めてください。そうすれば、これがどの宗教にも当てはまることがわかります。

 

 イエスの最後の言葉の文脈で考慮すべき、もう一つの要点は、弟子と人々のために、彼が信仰ではなく、彼の教えの実践を強調したということです。これは、信仰が最終的には従うことを意味し、従わなければ結果がないことを示しています。そうでなければ、イエスは、「彼らに従うように教えなさい」とは言わなかったでしょう。信仰は、実践の準備、あるいは最初の段階に過ぎません。ただ信じることは、実践全体の一部にすぎません。

 

 死が近づくにつれ、イエスは弟子たちに、自分の教えを世界中のすべての人々に広めるべきだと助言しました。仏陀に関しては、彼が目覚めた数ヶ月後、つまり彼の布教人生の最初の段階で、最初の60人の弟子を(それぞれ異なる方向に)送ることによって、法を広める必要性を強調し始めたことを、私たちは知っています。そしてそれは、45年間続きました。仏陀もイエスも、世界中のすべての人々に、光をもたらすことを望んでいました。これは両者に共通です。イエスはこう言われます。「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施しなさい」(マタイ28:19)。仏陀に関しても、同様の言葉を遺しました。「行きなさい、比丘たちよ。多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への慈しみから、善のために、神々と人、同胞、比丘の利益と幸福のために。栄光の教えは、神聖さ、完全さ、そして純粋さの人生を教え​​ます。」(Mahavagga, Vinaya-Pitaka 4/39/32)

 

 真に宗教的な人々が、最も完璧な方法で、彼らの宗教を実践するときはいつでも、それは、キリスト教や仏教のような教えの創設者の意味で、普遍的な宗教であると言うことができます。これはすべて、宗教の創設者に従うことの真摯さ、または実際の宗教である法の実現に依存します。

 

 この講義では、キリスト教と仏教をさまざまな視点から、さまざまなアプローチで比較研究しました。私たちは、誰もこれ以上考えていないように見えるという観点から、キリスト教を見てきました。これは、正確性と公平性のために行われました。

 

 要約すると、今日の講演はすべて、五つの主要な分野に分類されると言えます。

 

(1)世界のすべての宗教の開祖は、人が必要な完璧さを達成するのを助けるために生まれました。

 

(2)すべての宗教的教典は、俗語と法語の二つの言語で書かれています。ダンマを法語で解釈しなければ、異なる宗教が互いに矛盾しているように見え、それらの間に永続的な調和を確立することができなくなります。法語を完全に理解できるように解釈しないと、自分の宗教に不満を抱き、別の宗教を採用したり、宗教を完全に放棄したりする人もいます。さらに、法語のみに属する文が俗語的な意味で誤って解釈された場合、それらは実際的な意味を失います。

 

(3)より広い視野は、世界に良い結果をもたらすことを目的として宗教の比較研究を行う際に、省略できない本質的な要素です。たとえば、次の点について合意が必要です。すなわち、さまざまな国籍や言語のすべての人々に対し、神から遣わされた法(真理)の説教者がいること。今日の人々は、上から木に登ったり、馬車に馬を牽かせたりして、経典の密林で迷子になっていると説明できる方法で、自分たちの宗教を研究していること。教理上の要点を正しく解釈するための基準は、世界の人々の公益への利益であるべきだということ。人々が簡単かつ迅速に宗教を研究できるように、すべての宗教に共通する宗教用語が必要であること。

 

(4)キリスト教を仏教と比較する場合、すべての宗教は、その外的形態と内的性質の両方を持っていることを認識しなければなりません。公平を期すために、ある宗教の外側の形態を、他の宗教の外側の形態と比較する必要があります。また、内側の存在と内側の存在を比較する必要があります。宗教という言葉は、人間を至高者に結びつける「(道徳的)遵守と(精神的)実践のシステム」として定義されるべきであり、それを皆さんが望むもの、つまり、神あるいは涅槃と呼んでください。新約聖書には、仏教やティピタカとの多くの共通点があります。つまり、キリスト教は、知恵に基づく行為と自力の宗教であり、一般的に理解されているような、単なる信仰に基づく宗教ではありません。この事実は、キリスト教が、他の重要な特異性のない信仰に断固として基づいた宗教である場合、イエス・キリストが、彼の教えにどこにでも見られる、戒めの行為や実践に特に重点を置いていなかったはずであるという理由によって、実際に示すことができます。そして彼は、彼の最後の言葉でこの点を強調することはなかったしなかったでしょう。「…あなたがたに命じておいた、いっさいのことを守るように教えよ。」

 

(5)したがって、どちらの宗教も、自分で行わなければならない行為の宗教であり、自分で刈り取る結果の宗教でもあります。法に従えば、あるいはキリスト教の言葉で言えば、「神の意志に従えば」、望ましい調和を達成することが可能になるでしょう。このように、この二つの宗教は、あらゆる点で一致しています。この点については、明日の講義で詳しく説明します。

 

 (ブッダダーサ比丘『キリスト教と仏教』第一部 訳了)

 

 タイの森林派比丘による、キリスト教と仏教の比較論である。キリスト教会側からは色々と批判もあるとは思うが、比較宗教という視点からは、大変興味深い講義であると思う。

 

 ちなみに、私が接したことのある仏教の先生方、長老や老師は、キリスト教に否定的な見解を持つ方が多かった。キリスト教邪教そのものであり、イエス自体、架空の存在であると主張する方もおられた。それを聞いて、私自身は、イエスの教えと仏教は、非常に共通点が多いように漠然と感じていたので、些か動揺することもあった。白黒、善悪、正邪と決めつけるのは、私は苦手なのである。

 

 いずれにせよ、自他に利益をもたらし、人を救い、心に安穩をもたらすならば、どんな宗教の教えでも、悪いものではないと私は思う。

キリスト教と仏教(10)

Kalāmasuttaの意味での思想の自由

 

 マタイによる福音書12章12節は、イエスが「安息日に良いことをするのは、正しいことである」と言ったことを記録しています。これは、古代ヘブライの宗教的厳格派であるパリサイ人に対し、イエスが述べたことです。その宗派は、安息日には何もすべきではないと信じており、その日に病人を癒すことさえ拒否しました。 イエスは、そのような厳格さに同意しませんでした。 

 

 彼は安息日に、他人のために何でもできると教えました。これは、仏陀の教えの精神である、単なる伝統的な信仰に限定しない(ma paramparaya - in: Kalāma Sutta, Tikanipata, Anguttara-Nikāya)という、仏陀の忠告と同じです。パリサイ人との対決の間に、イエスは、次のように宣言されました。「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。」(マタイ12:6)。それから彼は、こう付け加えました。「人の子は安息日の主である」(マタイ12:8)。イエスは、誤解に基づく古代の伝統に従わない、十分な理由があると主張しました。彼は、パリサイ人が、迷信的な慣習から自由になるのを助けたかったのです。そして、安息日は神の日と見なされ、聖なる日として祝われているにもかかわらず、彼はその声明を出しました。人の子イエスは、神への偽善的な献身を非難し、人々に心の使い方を教えたかったので、神の名によって語りました。しかし、パリサイ人は、盲目すぎて彼を理解できなかったので、彼らはイエスを追い払おうと企てました。仏教徒は、イエス・キリストによる、この自由な思考の態度を高く評価し、キリスト教の教えを、自由な思考の例と見なします。

 

 マタイによる福音書15章1-2節、11節によると、イエスエルサレムのパリサイ人と律法学者のグループから、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」と尋ねられたとき、彼は次のように要約して答えた。「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。」ペテロが彼に解釈を求めたとき、彼は次のように説明しました。「しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」(マタイ15:18-20)。これは、仏教のように、キリスト教が、もともと迷信の外面的な形を強調した、儀式の宗教ではなかったという事実に光を当てます。残念ながら、迷信は今や、非常に多くの種類の儀式を発展させ、本質を覆い隠し、支配的な内容になっています。イエスは、一般の人々の言葉の意味での父、母、兄弟の通常の関係に注意を払いませんでした。しかし、すでに述べたように、彼にとって天の父の意志を行う人は皆、兄弟、姉妹、そして母でした(マタイ12: 50)。彼は、宗教の最高の真実を達成するために、彼が伝統を超えたことを示したかったのです。親族・血縁に関するキリストのこの態度は、仏教における類似の態度、すなわち、聖なる家族(ariyaya jātiya jato)での再生を彷彿とさせます。これによって、人は異なる意味で父、母、兄弟を受け入れます。これは、最高位の知恵を特徴とする人生と見なされるべきです。

  

実践的な理解

 

 キリスト教を知恵の宗教として扱ってきたので、比較研究のために、他の非常に興味深い点を検討します。

 

 マタイによる福音書第19章21節で、イエスは、次のように述べています。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。…そして、わたしに従ってきなさい。」身寄り無し、一文無し:これがイエスの生き方であり、弟子たちが、解放への道の障害となるような家族の束縛を持たないように、同じような生活を送るように説得しました。この種の生活の重要性は、マタイによる福音書第6章24節にある、ある喩え話において説明されています。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」これを明確にするために、イエスは、次のように述べています。「また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19:23-24)。

 

 金持ちがいくら働いたとしても、涅槃や神の国のためではなく、金持ちになるためだけです(つまり金持ちは、涅槃や神の国とは無縁です)。

 

 上記の参照文献は、キリスト教において、完璧な状態を達成するために、官能的な快楽を放棄することを特徴とする出家の生活が、最高の願望と見なされていることを確認しています。パーリ語では、これは、nekkhamma(出離)、あるいはnekkhamma-paramīとして知られています。言うまでもなく、イエスは、この種の生活の優れた例でした。仏教の最も重要な特徴の一つは、中道です。これは、一方では官能的な喜びを避け、他方では自己虐待または自己苦行を回避する、実践の方法を意味します。それは中庸の略であり、それによれば、地上での義務を果たすのに十分な、肉体的および精神的な力を持っている必要があります。マタイによる福音書11章29-30節で見ることができるように、イエスは中庸に賛成し、それを生き、信者にそれに従って生きるように、教えたり説得したりしました。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」これは、キリスト教が、中庸の原則を支持していることを示しています。これは、最も重要な原則である、仏教徒の中道に対応しています。

 

内面性と恭順

 

 今、私たちは、非常に微妙な種類の主題に行き着きます。ダンマ(法)は自分自身によって(paccattam:個人的に、自分自身のために)実現されるべきです。言い換えれば、ダンマは内側に向きを変えることによって、内面(ajjhattam)で理解され、実現されるべきです。仏教徒にとって、彼ら自身の師匠、経典、あるいは、信頼している人でさえ、いかなる権威も受け入れたり、引き合いに出す必要がないということは、賢明に知られている、単純な事実です(Kalāma Sutta, Aṅguttara Nikāya 3.65)。キリストの教えも、この原則に準拠しています。イエスは次のように言われます。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7: 38)。これは、彼の足跡をたどって実践することによって、彼への信仰を示す人は誰でも、彼から流れ出る、生ける水の川から永遠の水を飲むことを意味します。ここで使われる実践は、仏教と同じでなければなりません。つまり、肉の生活から自分を解放し、自然や神に属する神の生活に入る必要があります。これを達成すると、崇高な平和と静けさを感じるでしょう。これを仏教の言い方で言い換えると、この達成は、涅槃と呼ばれます。つまり、それまで私たちに存在していた、苦しみの消滅です。

 

 仏陀は、次のように述べています。「知覚と意識を備えたこの等身大の体の中に、私は、世界の発生、世界の消滅、そして世界の消滅に至る道を宣言します。」(Rohitassa Sutta, Samyutta Nikāya 2.26)。私たちは、自分の中に一切を、実際に見つけることができます。もちろん、私たちが何をどのように実践するかに依存します。神やイエス・キリスト、あるいは永遠の水の形での神の恵みなどでさえ、すべては私たち自身の実践を通して、私たち自身の中に見つけることができます。逆に、サタン、または地獄の炎と呼ばれる多様な苦しみも、私たちの行動に従って、私たち自身の中に見つけることができます。最高のレベルで実践するとき、自分の中に神の国を見つけることができますが、それはすべて、どのように、またはどのレベルで実践するかにかかっています。それを信じるかどうか、そして肉の生活から自分を解放する準備ができているかどうか-それは重要な問題です。自然に私たちの内にある神の国に新たに生まれるかどうか、あるいは自然に私たちの内にある地獄に引き込まれるかどうかは、この問題に依存します。このように、法は自分自身によって、そして自分自身の中で実現されるべきであるという仏教の原則(paccattaṁとajjhattaṃ)は、キリスト教にも見られます。それが「新たに生まれる」(ヨハネ3: 3)であろうと、「人生に入る」(マタイ19:17)であろうと、どちらも私たち自身、ここ、そして今この世界での精神的活動を意味します。paccattaṁとajjhattaṃの仏教の原則に照らして、これを理解する必要があります。同様に、「神の国に入る」などの用語や表現も、同様の意味を持っています。

 

(続く)

キリスト教と仏教(9)

 マタイによる福音書第7章12節の別の箇所は、仏教の業の法則を表現しています。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」これは基本的に、絶対的かつ全能の神である業の法則に従って、正しく行動しなければならないことを意味します。業の法則を信じているにせよ、それとも神を信じているにせよ、私たちがどのように行動するかによって、収穫する結果が決まります。これらの言葉には、自助(自力)の原則も見られます。

 

 マタイによる福音書第7章7節は、次のように言っています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう!」仏教の観点から、これも業の主題に当てはまります。神から何かを受け取るためには、私たちは尋ねるか、願い、求め、ノックしなければなりません。信じるだけでは十分ではありません。長時間座って祈っても、十分ではありません。これは、望ましい結果を達成するための真剣な取り組みです。私たちは、単なる言葉ではなく、私たちの行為によって、業の法則に「願い」ます。

 

 マタイによる福音書第11章29節で、イエスは、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と言っています。困難に辛抱強く耐える忍耐と堪忍をもって行動することが、ここで忠告されます。そしてそれは、今度は業の法則に従います。

 

 マタイによる福音書第12章33節には、次のような記述があります。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。」ここでも、業について教える仏教や、他のすべての宗教に見られるように、業の教えが認識できます。 したがって、仏教徒は、キリスト教を純粋な信仰の宗教ではなく、行為の宗教と見なしています。 

 

 マタイによる福音書第第12章50節は、「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである!」と述べています。この声明では、「信じる」ではなく、「行う」という動詞が使用されていることに注意してください。これは、イエスが、信仰よりも、その行為を強調したことを示しています。ここでイエスは、マリアを母親として、そして彼自身の親族として受け入れることを拒否しましたが、彼の父の意志を行った人々を、彼の親族や母親として受け入れました。信仰だけでは、兄弟、姉妹、あるいは母親になることはできませんでした。このような重要な箇所では、実践と行為が強調されていますが、信仰と祈りについては言及されていません。

 

 マタイによる福音書第18章35節では、次のように述べられています。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう。」信仰は必要ですが、それは、心から生じる行為、つまり意図的な行為(業の本質)です。

 

 そして最後に、マタイによる福音書第19章17節に、「しかし、もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい!」という指示があります。ここでの「守る」という言葉は、仏教の「実践」(paṭipatti)(という言葉)に対応しています。戒めを守ることや戒めを生きることは、単にそれらを信じるだけではありません。キリスト教と仏教の教えは、どちらも実践の必要性を扱っているという点で似ています。両方の宗教によると、注意力、理解、そして知恵を持って行動することなしに、信仰、恭順、または信心深さを持っているだけでは十分ではありません。ここで述べられた多くの引用は、マタイによる福音書の比較的少数の箇所に、仏教の業の原則に対応する、多くの教えがあることを認識するのに十分に明確です。新約聖書全体を考えるとしたら、そこには業に関連する箇所が、どのくらいあるのでしょうか?

 

 要約すると、寛容、許し、敵への愛、隣人への助け、自己愛以上の隣人愛を勧めるキリスト教の教えは、信仰だけではなく、行為に関する教えです。人が神を理解するかどうかは、関係ありません。なぜなら、上記の美徳を実践すれば、結果は、仏教徒が神であると信じている、業の法則に従うからです。最も単純な祈りでさえ、それが人の身体、言葉、そして心を含むという、単純な理由のための一種の行為です。ですから、祈りの行為は、身体的な行為、言葉による行為、そして精神的な行為から成り立っています。

 

 「信仰」と呼ばれる現象でさえ、それが正しい種類であり、知恵に基づいているとき、健全な精神的行為です。それは意図から生じるので、または意図自体が賢明で、惑わされていない心で本当の帰依処を見つけることであるため、それは健全な精神的行為になります。伝聞だけに基づく盲信は、ここでは行為には数えられません。

  

知恵の教えとしてのキリスト教

 

 ここで、行為と自力の原則以外に、仏教とキリスト教の教えに共通する、他の側面を見つけるために、さまざまな角度から、キリスト教を見ていきます。次に考慮すべき点は、キリスト教が、「知恵の宗教」であるかどうかです。

 

 マタイによる福音書第18章7節には、次のような言葉があります。「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」これは、キリスト教の教えが、道を歩むために、知恵または光を必要とすることを示唆しています。換言すれば、信頼できる、有能な導きが必要です。この導きは、知恵の光に他なりません、そしてこの場合、神は完全な光です。神を信じることは、神の光、あるいは神として擬人化された光に従うことを意味します。一般的に、信仰は、他人を前提としています。しかし、自分自身に信念が生じると、その信念は即座に光に変わります。その光や知恵は、完全に自分自身に依存しています。つまずきの誘惑や原因を克服することは、外部の案内を信じることではなく、自分自身の中にある光に依存します。これを仏教的に解釈すれば、イエス・キリストの教えにおける、知恵の要素を完全に見ることができます。

 

 「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」(マタイ13: 23)

 

 イエスが、「その言葉を聞いて理解する人」を「その言葉を聞いて信じる人」とは言っていないことに注意してください。仏教徒は、イエスが自分が聞いたことを信じるだけでなく、自分が聞いた言葉を理解する信者を望んでいると言うでしょう。そして、マタイによる福音書13章20-21節に照らして、何故彼が、そのような信者を望んでいるのかが明らかになります。「その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」これは、言葉を理解し、教えにしっかりと定着している人は、安定せざるを得ないことを示しています。しかし、急いで信じる人は誰でも、それは、太陽の下で乾いて実を結ばない岩に落ちる種のようです。このため、仏教徒としては、キリスト教は、知識の宗教であるという印象を受けます。しかし、宗教関係者は、常に信仰以外の何物も説教していません。その結果、先祖がキリスト教徒であった人々の中には、以前の宗教を放棄して別の宗教を採用したり、まったく宗教を失ったりする人もいます。私は彼らの何人かと話をしましたが、信仰があまりに強調されていなかったら、それは起こらなかっただろうと私には思えます。

 

 マタイによる福音書7章4節以下は、次のように述べています。「 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」

 

 これは、完全に目覚めた人(仏陀)が、法句経(Attavagga 158-159)で言っていることと、非常によく似ています:

 

 まず第一に、正しい道に身を置き、それから他の人に教えます。そうすれば、賢者は自分自身を傷つけません。他の人に教えるように自分自身で行うならば、その人は、他人を御することができます。そうです、自分自身を御するのは困難です。 

 

 ここで、「自分で行う」という表現は、明らかに「自分を教える」という意味であり、2節に照らして、自分が他人に教えようとする美徳にのみ、しっかりと確立されていることを意味します。イエスが言われたことを説明するために、自分自身の「梁」を取り除くことは、信仰よりも知恵と関係があることに注意する必要があります。このイエスの言葉がキリスト教の主要な教義と見なされるならば、それはこの理由のために知恵の宗教でもあります。ですから、キリスト教徒にとっても仏教徒にとっても、私たちの目からちりを取り除くのは、知恵の仕事、つまり神の光です。

  

(続く)

極東の新しい西側

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 ドイツ紙(ZEIT online)に、気になる記事が掲載されていたので、雑に和訳してみる。

 

 記事のタイトルは、"US-Außenpolitik: Der neue Westen liegt im fernen Osten"(米国の外交政策:新しい西側は極東にある)。マティアス・ナス(Matthias Naß)のコラム。以下、内容である:

 

 アフガニスタンでの大失敗の後、アメリカの外交政策の中心は、さらにインド太平洋に遷移した。国際政治では、ヨーロッパは周辺に移動している。

 

 アメリカだけでなく、NATOとドイツも、アフガニスタンで失敗した。西側は全体として失敗した。テロリストの直接の脅威が他の選択肢を残さない限り、即座の軍事介入はない。しかし、これはアフガニスタンへの介入の始まりでもあった。それから、軍事的介入が継続した理由は他にもあり、最終的に西側は、目的、交戦相手、成功の可能性について正直に説明することなく、二十年もの間、戦争を繰り広げた。

 

 しかし、正確には、アフガニスタンで何が失敗したのであろうか?西側による戦争?西側の政治的結束?自国民とアフガニスタンに対する誠実さ?西側自体の理念でさえ?西側は、なおも存在しているのだろうか?とコメンテーターは尋ねる。

 

 確かなことの一つは、21世紀の西側は、もはや20世紀後半の西側ではない。それは、冷戦の西側、ソビエト連邦ワルシャワ条約国との対立であり、これは北大西洋地域の西側であり、NATOとほぼ同じであった。


 21世紀の西側は、地理的にも地政学的にも異なる。アメリカにとって、中国との競争はかつての東西対立に取って代わった。今日の二つの支配的勢力間の争いは、もはや北大西洋ではなく、インド太平洋に焦点を合わせている。そして、両者は軍事的に互いに競争するだけでなく、少なくとも経済的および技術的にも同程度に競争している。経済的に非常に成功している中国は、官僚主義的に硬直化し、最終的に破綻したソビエト連邦とは異なる課題を提示している。


 米国のジョー・バイデン大統領は、それを明確に述べた:「我々は、はるかに重要な中国との競争に集中したいので、アフガニスタンを去る。」カブール空港で混乱が激化する中、シンガポールベトナムを訪れた彼の副大統領カマラ・ハリスは、彼女の外遊において、彼らの政権の新しい優先事項を再確認した。「21世紀の歴史が書かれるとき、ここインド太平洋で多くのことが起こると私は信じています。」

 

 アメリカとヨーロッパの同盟である旧西側は、これらすべてにおいて小さな役割しか果たしていない。ベルリンで最も優秀な外交政策専門家の一人は、最近、「ドイツは、ヨーロッパ全体と同様に、米国の周辺地域になりつつある」と述べている。 

 

 日本、韓国、オーストラリアなどの他の米国の同盟国は、重要性を増している。そして、インドなどの新しいパートナーが追加された。近年、これら四か国が集まって緩い関係を形成し、やや拘束力のない名称、Quadrilateral Security Dialogue(四カ国戦略対話)が付けられた。「クワッド」は、NATOに匹敵する軍事同盟ではない。しかし、軍事的同盟を含む結束は、ますます近づいている。現在、四か国の軍用艦は、太平洋のグアム島周辺海域で大規模な軍事演習を行っている。

 

 ジョー・バイデンの大統領就任後、ホワイトハウスに日本の首相と韓国大統領を最初に迎え、ヨーロッパに向けてNATOEUを訪問する前に、仮想サミットのために「クワッド」の指導者と会ったのは、偶然ではなかった。アメリカの外交政策の中心は、インド太平洋地域に移った。


 ヨーロッパ人は、それに順応し始めている。かつての植民地勢力がインド・太平洋地域にまだ存在しているイギリスやフランスのような国々は、ますます頻繁にそこに軍旗を掲げている。イギリスは、ちょうど彼らの新しい空母、HMSクイーン・エリザベスを南シナ海に派遣した。そしてフランスは、原子力潜水艦を紛争海域を通過するように航行させた。


 ドイツは取り残されることを望まず、遠路はるばるフリゲートバイエルンを派遣した。 2020年9月に連邦政府が発表した「インド太平洋に関する指針」には、「ドイツはこの地域の(国際)規則や秩序の施行に貢献する準備ができている」と書かれている。これがどのように実施されるかは、当面、この指針のとおりになる。

 

 NATO事務総長のイェンス・ストルテンベルクも、インド太平洋地域のパートナーとの協力を強化したいと考えている。「NATO加盟国と、自由、人権、多国間主義などの共通の価値観を支持する太平洋地域の国々との間に、より緊密なプラットフォームが構築される」と、ストルテンベルク氏はインタビューで述べた。NATOは現在、インド太平洋をテーマにした戦略的概念に取り組んでおり、これは次回のNATOサミットで採択される予定である。

 

 そのため、旧西側諸国は、可能な限り新西側諸国を支援したいと考えている。アメリカは、ヨーロッパがなくても、インド太平洋でかなり上手くやっていくことができることを示唆している。ロイド・オースティン国防長官は、数週間前に英国で、インド太平洋では歓迎されているものの、軍事的資源はどこでも不足しており、ヨーロッパは引き続き必要であることを知らせた。ボリス・ジョンソンの、誇り高きグローバル・ブリテンに対する、若干の恥辱。

 

 新しい西側がどの程度、西側になるかは、まだ分からない。インド太平洋におけるアメリカのパートナーは、大体民主主義国ではあるが、ヨーロッパの価値観では、彼らは旧西側諸国よりも、かなり民族主義的かつ権威主義的である。そしてむしろ多国間主義を嫌悪する。戦略から地理まで、すべてが若干複雑で、混乱を招きかねない。それに加えて、ヨーロッパから見た新しい西側は、はるか東にある。結局のところ、アメリカから見ると、その方角は正しい。 

 

(訳了)

 

 アフガニスタンの失策を無理して繕っているような記事であるが、アメリカにとって、中国の台頭がソ連以上に脅威的であるというのは、そのとおりかもしれない。というより、今のアメリカ(およびヨーロッパ諸国)の凋落と対照的な中国の隆盛を見ていると、中国指導部が言うように、21世紀は中国の時代かもしれないと思えてしまう。

 

 それにしても、アフガニスタンへの軍事介入の理由は他にもある、という冒頭の記述は示唆に富む。表立って公表できない理由があるということなのだろうが、それを前提にしなければ、二十年にも及ぶ軍事介入は、到底説明不可能なのである。

キリスト教と仏教(8)

キリスト教と行為

 

 私は、キリスト教が行為(業)の宗教であるという印象を受けました。それは、聖書の次の箇所を読んだことに起因しています。まず、ペテロはイエスに答えました、「永遠の命の言をもっているのはあなたです。」(ヨハネ6: 68)。私たち仏教徒は、永遠の命は、信仰だけでは実現できないと考えています。私たちは、イエス・キリストの教えを注意深く、洞察力、明晰さ、そして知性をもって実践することによってのみ、永遠の命を得ることができます。誰かが実践を通して永遠の命の味を学んだ後にのみ、信仰という言葉を、完全な意味で使用することができます。それまでは、それは達成された信仰ではありません。

 

 また、法語において、永遠の生命が何を意味するのかを、理解する必要があると思います。信仰だけでは、これを理解することはできません。

 

 しかし、それを最高の意味で理解していなければ、どうしてそれを切望し、本当に傾倒することができるでしょうか。ペテロはただの漁師でしたが、普通の生活とは正反対の何かを見るのに十分賢明でした。彼は、従来の生命を空虚で無意味に思わせる、別の種類の生命を認識しました。この知識は、彼にとって非常に明確だったに違いないので、彼は、永遠の命の意味を理解することができました。そのような信仰は、何を信じるべきかを命じられることに伴うものではありません。むしろ、それは最高の行為につながる知恵のしるしです。 

 

 ヨハネによる福音書第6章63節で、イエスご自身が次のように述べています。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」これらの言葉は意味がなく、皆さんが、それらを理解せずに信じるだけでは、何の役に立ちません。これらの言葉は、高度な知恵を持った人の、崇高な法であるからです。十分な知性(sati-paññā)を持っている場合にのみ、その意味を理解し、適切に実践することができます。これらの言葉を、普通の人の慣習的な言葉でとらえ、暗記し、字面だけを信じると、その信仰は、盲目的で愚かになります。そのような信仰が如何にして、「キリスト教的」と呼ばれることができますか?言葉が霊と命の両方になり得るということは、正しい実践、最も複雑な技術的主題に関して理解でき、理解しなければならないことを超えた、実践に依存します。ここでいう「霊」とは、普通の意味での人間の精神を指すものではなく、「命」とは、私たちが慣れ親しんでいる、普通の生命を意味するものでもありません。むしろ、これらの言葉は、本質的に永遠であり、死を知らない何かを指します。したがって、そのような言葉は、(これらの用語は一般的に理解されているため)信仰と祈りだけに基づいた宗教には、決して見られないことがわかります。

 

 私たちが「信仰」(saddhā)と呼ぶものは、明確な理解をもって実行される行為にのみつながる、統一され集中した心を指します。この瞑想的な心は活発です。マタイによる福音書第21章21節で、イエスは、次のように言われています。「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。」マタイによる福音書17章20節で、イエスは、ほとんど同じように言われています。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。」マタイによる福音書第14章31節で、イエスがペテロを掴んで湖に沈まないようにし、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と尋ねることもわかります。これらの例は、次のことを示しています。ここで意味するのは、非常に集中した心です。したがって、神が要求する種類の信仰は、決して盲目的になることはありません。イエス・キリストの教えでは、神に関することを正しく理解せずに、ある権威を盲目的に信じることは不可能であるはずです。

 

 他人の言葉を信じるだけで、誰の利益のために行っているのかを知らずに、他人を愛し、自分の利己心を破壊することが、どうして可能でしょうか?そのような信仰は、山を動かすのに十分強力になりますか?この文脈での「山」という言葉は、仏教的に解釈する場合、神への道を妨げるエゴイズムを示しています。この類の山は、普通の地上の山よりも、はるかに重いのです。仏教徒も信じているこの信念は、山を動かすこともできます。私たちも、ある意味で神を知ることを望んでいます。したがって、そのような宗教体系は、純粋な信仰体系として理解されるべきではありません。むしろ、私たちはそれを、最高レベルの注意力と知恵をもって、神の知性をもって実践される、行為の体系として理解すべきです。

  

業と神の助け

 

 マタイによる福音書第6章14-15節で、イエスは、こう言われています。「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。...」。これは、キリスト教が、救いのための単なる祈りや信仰の体系以上のものであることを明確に示しています。自分自身の不正行為から自分自身を解放したい場合、つまり、神が私たちに対する義務を果たすように仕向けたい場合、私たちは、許しの行為(業)を実行しなければなりません。私たち仏教徒は、神が私たちを助けることができるように、最初に自分自身を助けなければならない限り、そのような体系を、祈りの道ではなく、行為の体系と見なしています。神は自ら助ける者を助く。私たちは、他の人に神を喜ばせることを許すだけでなく、私たちが求める利益を見越してそうします。私たち仏教徒は、実際にそのような行為によって、自分自身を助けていると言います。そして私たちは、この種の自助が、キリスト教の教えにも見られるという印象を持っています。しかし、時と状況が変化するにつれて、さまざまな解釈が発展し、最終的に、すべての実践的な教えが、信仰と祈りの問題に帰着してしまうようです。したがって、比較研究を続けるために、私たちは教会の伝統的な教義ではなく、キリスト教の信仰の真の伝達源として、聖書を用いるべきです。

 

 マタイによる福音書第7章18-20節で、イエスは、木とその実の譬え話を使って、その人の行為によって、人が善か悪かを認識していることを示しています。これは仏教の教えとぴったり合っています。マタイによる福音書第6章33節には、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう!」という言葉があります。この言葉を表面的に理解すれば、信仰や、行為するための信仰に基づく献身の問題のようです。しかし、仏教の考え方に慣れている人は、それに同意することはできません。仏教的に解釈すると、「神の国を求める」とは、完全な放棄と手放し(Pāli:paṭinisagga)を意味します。

 

 自然や神のことを、私たち自身や私たち自身のものとして理解すると、私たちは、「私」や「私のもの」として、これら自然のものに執着してします。執着するほど、利己主義で溢れるまで、「私」と「私のもの」の感覚が強くなります。誰かが今、神の国を探しているなら、これらのものをあきらめ、放棄し、神または自然に戻し、「私」や「私のもの」として執着してはなりません。それができれば、瑕疵や欠陥のない、完全な解放と平和を実現できます。

 

 私たちは、神を「法」、つまり絶対的で公正な自然として語っています。これまで個人的に区別された自分(attā)と、その所有物と考えられていたものを手放すことは、それらのものが実際には一度も自分に属していなかったという単純な理由から、最も正確で正しいことです。確かに、私たちの心と体でさえ、私たちのものではありません。むしろ、それらは、法あるいは神に属しています。自己や自我の感覚から解放された心は、神に到達しました。それは私たちが、"lokuttaradhamma"(世俗的な懸念のない、超越的な現実)と呼ぶ、仏教の最高レベルの法です。したがって、キリスト教における、神の国の探求に関するマタイによるこの声明は、ダンマの超越的なレベルであると、私たちは信じています。繰り返しになりますが、そのような行為は、「信仰」ではなく、「業」と呼ばれるべきです。なぜなら、それはすべての苦しみを完全に終わらせる最高レベルの行為であり、その後は何も実践する必要がないからです。

 

 マタイによる福音書第7章2節は、「あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」と述べています。仏教徒にとって、これは業の法則に完全に一致しています。与えることと受け取ることは、主に私たちの仲間の人々との財物の交換を指すのではなく、業の法則としての神の側面を指します。

 

(続く)

真清田神社&尾張大国霊神社

 帰省したついでに、愛知県の真清田神社(尾張国一宮)および尾張大国霊神社尾張国総社)を参拝してきた。まずは、真清田神社。JR尾張一宮駅から歩いて参拝。雲一つない晴天。暑かった。

 

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 続いて、尾張大国霊神社名鉄国府宮駅から歩いて参拝。参道が長い。

 

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 真清田神社の社殿は戦後の再建。尾張大国霊神社は、楼門と拝殿が重要文化財とのこと。檜皮葺の社殿は美しいと思う。両社ともに典型的な、いわゆる「尾張造」の社殿。こんなご時世なので、なかなか神社参拝もできないので、この機会に付近の式内社石刀神社&酒見神社)、あるいは三河国一宮である砥鹿神社等も参拝したかったのだが、暑さで疲労困憊し、今回はこれにて帰京した。

椿大神社

 帰省したついでに、三重県椿大神社伊勢国一宮)を参拝した。近鉄四日市駅から三重交通の路線バスに乗車後、約1時間程度で到着。

 

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御船磐座

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高山土公神陵

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別宮椿岸神社

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 こちらの社も伊勢神宮を意識した造りになっている。人里離れた山奥に鎮座しているのだが、それでも暑い。神社特有の清々しさ、涼しさが全く感じられないほど暑かった。神は居られないのかな、と少々残念である。そんなわけで、しばらく滞在することも叶わず、そそくさと帰路についた。

 

 帰りは、鈴鹿コミュニティバスで加佐登駅まで乗車後、JR線で名古屋に帰ってきた。